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装蹄師として(五十年の歩み)

佐々木 敬止(八十三才)

私は明治三十三年宮城県登米郡豊里村に生れ明治四十年四月一日、七才の時に、父兵左エ門と共に渡道、富良野村市街予定地(今の上富良野町常盤区大橋商店の処)に住み、父は桶作りを業としていました。
裏の方には、田村熊太郎氏の経営する田村座と言う芝居小屋(今の木津建設の付近)がありました。田村さんは賭博の総元締等をして、相当幅をきかせていたようです。
私達は当所で四年程過ごした後、明治四十四年に現在地(西富区)に移転しました。
その頃の旧役場の周辺は市街予定地で、商店の状況を思いたどってみますと、記憶に残っていますのは二十五号道路の南角(平田事務所の処)に郵便局、隣に柾屋、その向かいに牧野吉蔵さんという鍛冶屋(後に現在の久保精米所の処に転居)があり、この方は明治三十六年装稀師の免許を取得して、蹄鉄工も兼ねて営業していましたが、明治四十年頃にドイツから蹄鉄の技術が導入されると、「ドイツ式」と言う看板を掲げて蹄鉄業を始めました。牧野さんは、消防著の幹部としても活躍された方でした。
旧役場の前には北原虎蔵さんの借家、その手前に泉田さんが代書業を開いていましたが、当時は登記所がなく、登記の手続きには富良野迄出向いたものです。
私の父は、細々と生計を立てていた桶屋でしたが、大正八年十月役場新庁舎建設の際、石村の門柱を寄贈しました。当時公共施設に対する大口の寄付行為は、これが初めてと言われていました。
福屋組頭の時代、大正十三年三月十八日早朝、東中小学校の火災に際し、私は機械係で、道の悪い中を徒歩で駈けつけマトイ≠立て消火に当ったが、火の回りも速く、校舎一切を焼失したことは誠に残念でありました。
・蹄鉄業開始
大正十二年装蹄師になろうと志を立て、東京獣医学校付属の蹄鉄科に入学し、一年勉強して免許証を取得しました。
入学時の思い出には、消防の皆さんに送られて駅に行った処、関東大震災のため上京を制限しており、乗車券を売れないと言われ、しばらく待機して、九月末頃にやっと上京できたという出来事がありました。
東京は焼野原となっていました。学校は実に貧弱な処でしたが、此処で専門の勉強をすることができました。
当時、永田政次さんの装蹄所でアルバイトをしました。此処では学習院の教練馬三十頭の装蹄を引受けており、その中に乃木大将の愛馬で芦毛の乗馬も装蹄していました。私は学習院からの馬の牽付け返却を担当しました。
一年後免許証を取得することができましたが、上富良野では私が初めてでした。
・軍馬の育成
上富良野は馬の好きな方が多く、良い馬が育成されていまして、畜主は勿論のこと、私共蹄鉄業者も共に立派な馬を育成することに努力致しました。
大正七年に軍馬の購買地に指定され、毎年秋の定期軍馬購買には、富良野沿線七ヶ町村の馬が上富良野に集まりました。
購買の都度、購買官から軍馬候補馬の育成管理について指導された為か、畜主の管理も上手になり、我々業者も護蹄について関心を持ち、研究を重ねていました。農耕馬にも、軍馬のように蹄鉄に鉄心をつけて装蹄することを始めたのは私ですが、畜主も大変喜んでくれました。
その頃馬の価格は、軍馬に合格し買い上げになると、地方相場の二倍以上になったものです。それで皆、熱が入り、それに伴って育成技術も向上して来ました。
買い上げになると代馬も良いものを求め、育成し、それが又軍馬に買い上げになることを一つの誇りにしていました。私共装蹄師も、自分の装蹄した馬が.軍馬に買い上げになると、我事のように喜んだものです。
・装蹄競技会入賞
昭和三年九月十五日、旭川で装蹄技術競技会が開催され、私も参加して二位に入賞しました。
会場に行ってみると、我こそはと言う人ばかり百人位集まっていて、皆立派に見えました。殆どの人が軍隊で修得した経験者で(騎兵・輜重兵・砲兵に在隊中)、地方試験で免許を取得したのは私一人でした。
審査も、単に鉄を早く打つだけでなく、馬の姿勢を矯正することに重点を置き、最初歩様検査をして、蹄の内側を切るか外側を切るか等を見極め削蹄することが肝心で、審査官はこの点をよく見ておられたようです。ここは私も十分心掛けていたので、入賞できたと思います。
私は馬の装蹄なら任せてくれと言う信念で、研究を重ねていました。同業者が五、六軒ありましたが、お蔭様で仕事も忙しく、南富良野村の幾寅から三晩も泊りがけで、軍馬に出す馬を打ちに来てくれた人もありました。
・再度受賞の喜び
其の後二回に亘り表彰を受けたことは、誠に名誉な事で、削蹄造蹄には研究を重ね、細心の注意を払って装蹄したものです。
その一回目は、昭和十五年九月一日、軍馬を八頭供出した理由で、軍馬補充部本部長陸軍中将和田義雄閣下からの表彰でした。
二回目は、昭和十六年四月八日、興亜軍馬大会名誉会長陸軍大臣東條英機閣下よりの表彰状は右の通りです。
東中に、越中富山出身の佐々木亀吉さんが、蹄鉄屋を開業された時、新妻が相槌を打つとの評判でした。その頃は誰でも弟子を雇う資力がない為、嫁さんに相槌を打って貰ってやったものです。
その後時代は移り、農業もトラクターが入り機械化されて、農耕用の馬は年々減少し、今では輓馬のみになってしまいました。
ひと頃は十軒もあった蹄鉄屋も、移転廃業し、現在では久保田誠順さん一人となり、細々とこの仕事を続けている有様です。
馬の育成地として華やかだった戦前、戦後を偲び憾慨無量なるものがあります。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一