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東中開拓・出身県人の変遷

上田 美一(七十九才)

遥か津軽の海を隔てた蝦夷地の開発が始められたのは、江戸幕府将軍家斉の頃でした。寛政十二年(一八〇〇年)に伊能忠敬が東蝦夷地の測量を行い地図を作って幕府に提出、二年後の享和二年に蝦夷奉行所が置かれ、蝦夷地を管轄するようになりました。
明治三年(一八七〇年)頃に仙台藩士伊達邦成が旧家臣を率いて、北海道開拓移民として、伊達に入地以後、各府県からの移住者が増えてきました。
富良野原野を植民地とする為に測量が行なわれることになり、明治二十九年、東中にも農地の区画が設定されました。
翌三十年には、東中で開拓者第一号となった田中米八、有塚利平の二氏が、遠く四国より来道、入地しました。それ以後は道外ばかりでなく道内の各地からも、富良野原野に魅力を感じて入地する者が続きました。
上富良野の開拓の足跡をたどると、各地域共農場や牧場に入る集団移民が殆どでしたが、東中地区では、個人で土地を払下げて入地した者が相当ありました。
しかし何と言っても、農場が主体的な役割を果たしていた事は、他の地域と変わらなかったようですが、主なる農場と牧場として存在したものに次の所があります。
中嶋農場、田中農場、神田農場、倍本農場
橋野農場、井形農場、時岡牧場、本間牧場
尚後年になって現れたものに農牧場がありました。
農場主と小作人の関係も、初めはうまくいっていたようです。特に田中、神田、井形の農場王は、農場内に居住して自らも農耕に従事しつつ、小作人を指導したり面倒をみたりしたので非常に業績も上ったようです。
一方中嶋、倍本、橋野、時岡、本間の外部地主もそれぞれ支配人等に有能な人を得て経営に専念していたようでした。
こうして開墾時代は、さしたる争いもなく過ぎましたが、明治の末期から大正の初期の頃になると、小さな争いが生じ始めました。
出身地を異にした人達の集まりですから、人情風俗習慣の違いから衝突することが多かったのです。
また、新しい土地を求めて親族とも別れ故郷を後にした人達なので、元気も良かったが、気性も荒かったようです。当時の指導者は、住民の融和を図る為相当な苦心があったと思います。
開墾の最初の仕事は、原生林を伐り、草を刈り焼き払い、稲キビ、菜種等の削り蒔きをすることでした。
とりあえず主食になる食糧の確保が肝心でした。編笠小屋に住み、飢えと寒さと闘い、家族相擁して耐えた当時の苦労は、今では筆舌に程くし難いものでした。
開墾して二〜三年後に裸麦、小豆、四〜五年してから色豆(菜豆)が作れるようになり、僅かながら現金を手に入れる事が出来るようになりました。それ迄は、ニベ(サビタ)の皮(製紙原料)を金に替えたり、或る人はバッタを捕獲して売ることだけが現金収入の道だったとも言っていました。
また旭川〜富良野間の鉄道が開通してからは、造材が盛んになり、地元では松岡源之助氏(後の松岡木工場主)が造材業を始めた為に、造材運搬等の仕事が出来たのです。その後石材業者も入ったので、石材切出しが行われ、石材運搬の仕事も加わりました。
このように現金収入の道が開け、住民の生活に潤いを与えた事は、地域開拓史上重要な事柄であったと思います。
それにしても移住後十年程は、住民にとって特に苦難の連続だったと思います。労働は厳しく、物はあっても金が無い、医者に行くのには遠い、といった状態で、病気で亡くなられた方や、苦しい生活に耐えられず内地に帰られた方、折角開墾した土地を経済に行き詰まって手離し涙ながらに転出された方等も多かったのです。
次に明治三十年から四十年迄、東中地区に於て郷土の草創期に尽力された方々を記します。
東中地区内開拓者名
明治三十年
  田中米八、有塚利平
明治三十一年
  和田富蔵、六条金作、長尾久蔵、佐々木貞助、田畑浅吉、尾崎政吉
  菊川ふじ
明治三十二年
  住友与平、松原勝蔵、森田喜之八、森崎惣平、住友弥平、岩崎虎之助
  丹波市助、谷口岩松、西条徳三郎、中北亀蔵、奥田亀蔵、広瀬七之丞
  吉田常次郎、上田清次郎
明治三十三年
  松岡源之助、松岡宗治、松井才一郎、松岡勘蔵、十川茂八、福家美代次
  長尾松太郎、松尾与四郎、福家次郎兵衛、福家市三郎、青地三四郎
  高松由平、神内元吉、谷口清一郎、新井市三郎、笹山喜五郎、一二三三吾
  〆田儀太郎、川口次郎助、西田九七郎、佐古善一、谷口与次郎、田村某
  室谷某、市原恒吉、久保吉之助、金田幸次郎、山本佐八、小西鶴吉
  十川庄平、田中小三郎、森源二郎、高木太市、新井源之助、真野喜一郎
明治三十四年
  臼井広治、丸山菊蔵、井形多吉、飯村恒吉、坂本太右エ門
明治三十五年
  田中四郎、松井仙三郎、田中辰二郎、篠原長太郎
明治三十六年
  石川庄蔵、森本米蔵、石橋伊平、上田伊太郎、藤森次郎九郎
明治三十七年
  神谷清五郎、市丸才一郎、泉六助、川口弥二郎、鈴木英太郎、重綱初蔵
明治三十八年
  久野甚松、岩田作右エ門、岩田石次郎、宮崎与太郎、蜂谷六之助、勇平八
  中田粂次郎
明治三十九年
  岩部春治、吉河市太郎、北田助次、松田市次郎、磯松喜作、高橋美津次郎
  田中元右エ門
明治四十年
  西谷元右エ門、西谷仲次郎、本瀬権作、佐藤根重次郎、松岡富次
  三嶋新右エ門、片山善平
以上の通りですが、試みにこの人達の出身県を調べて見ますと、次の様になっていました。
富山県 二〇戸  福井県 一三戸  長野県  三戸  滋賀県  一戸
香川県 二二戸  兵庫県  九戸  三重県  四戸  宮城県  二戸
徳島県 一五戸  岐阜県  八戸  愛媛県  一戸  合計  九八戸
これを大別して見ると、
四国出身者  三八戸    北陸出身者  三三戸
兵庫県出身者  九戸    岐阜県出身者  八戸
となって居り、最も近い東北地方からの移住者がいない事は不思議な現象と思われます。
またこれらの人達を、父或は祖父として持つ人達が、入植以来今日迄八十余年経た動静を探って見ると、現在の結果は次の様です。
福井県出身者  七戸    長野県出身者  三戸
徳島県出身者  二戸    三重県出身者  二戸
香川県出身者  二戸    滋賀県出身者  一戸
兵庫県出身者  ○戸    愛媛県出身者  ○戸
宮城県出身者  ○戸       計   三五戸
この表をみると開拓の初期に最も多い入植者を数え、開墾に教育に行政に尽くされた四国出身の方々の子孫の影が薄いことは、少しく奇異の感がしないでもありませんが、しかし苦難を耐え忍び、当地稲作裁培に貢献された足跡は東中の歴史に貴重な遺産として、後世に伝えられるでしょう。
肥沃な土地、人情豊かな郷土を築かれた先人の御努力に感謝を捧げ、業半ばにして逝かれた方々の冥福を御祈り致します。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一