郷土をさぐる会トップページ     第02号目次

八町内の大火

高橋 七郎(六十ニ才)

「火事っ火事だっ!市街が火事だ」、「おーいっ!何処だ、何処だ…」、ダダダッと階段を駆け降りる者、窓から顔を出す者、「八町内らしいぞ」。
何と八町内?…私が社宅へ移り住んで七ケ月足らずの町内である。スワ!一大事!
折悪しく今は、町内の会社、工場等の企業経理調査のため、午後から村役場二階の小会議室で、富良野税務担当官に、土管工場帳簿を見せている最中である。時に昭和二十四年六月十日午後四時頃と思われた。
「自分の町内らしいので見て来ます」と、挨拶もそこそこに表の自転車に飛乗る。ベタルを踏む足がもつれる。小学校の横に出ると、八町内方向の空に、真黒な煙が高々と立ち昇るのが見えた。
自転車を走らせながら心配になった。ここ一ヵ月近くは雨らしい雨も降っていないし、家屋その他諸々のものが乾き切っているだろう。その上南風がかなり強い!。サイレンが鳴らないのは、今日が停電日のせいか。あの黒煙のもの凄いこと、あれじゃ!一軒位では済まないぞ…。土管工場でなければ良いが……と念じながら、伊藤木工場、伊勢屋を通り過ぎ、駅前通りを夢中で工場目指して進んでいると、土管工場から外れた地点に煙が見え始めた。
農協一号石ぐら倉庫の角で七、八町内十字路を見る。現場は、本通り八町内入口近くらしく四つ角一杯に、ごった返しの人だかりだ。ひとまず工場事務室に戻り着いたら、工場長(故朝倉一泰氏)が心配そうに、部屋を出たり入ったりしている。
燃え盛っている箇所は、当工場から南西に二百米位離れているし、町並みからも隔絶している工場であるから、先ずは類焼はあり得ないと考え、町内防火係という役目から、火事場の人員整理の手伝いをする旨を工場長に話し、急ぎ火事場に向かった。
もう初めに見えた黒煙は、炎と化して燃え拡がっている。消防車が活動し、右往左往の人混みは、道路一杯で割込んで行く隙間もなく、到底十字路に辿りつけそうにもない。その上南風も一段と強くなっている。人員整理どころか、パニック状態だ。
風下が気になるので、鍾をかえして仲通りを走り町はずれの鹿野原さん宅横道から本通りに出る。丁度創成小学校の恒例の運動会帰りの人達だろうか、五、六人が市街に入れず橋付近でおろおろしている姿が見える。道理で熾烈な熱気と、火の粉、煙が、道路を這う様に狂いながら吹き飛んで来る。これではいくら強引に消防ポンプ車が入り込んでも、どうすることもできないだろう。
その時目に映ったのは、両側の家並みが、二本の火柱を横に倒した様で、火炎は屋根上をなめ回す、というよりすっぽり覆いかぶさる様だ。強風に煽られた炎は、屋根上一米位の高さで方向を変え、炎が二軒先、五軒先、七軒先になびいて飛火。炎に炎が折重なって、次々と瞬時にそこが燃え広がって行く。(後日知ったが、発火現場付近のニ、三軒が炎と化した時、本通り向い側にある妻の実家とその両隣の家は、土台壁、屋根のくすぶり始めていた煙が、一度に炎となり、家屋全体が燃え上がったそうだ)
乾燥しきって、屋根柾が殆どそり返り、めくれ上がった木造の家屋が多い上に、終戦後四年目では鉄板葺きもまばらで、特に工場・倉庫等戦時中に建築された大型建物は、柾葺きのままであった。乾き切った軒並が、丁寧に焚付けを並べた格好で、十五〜二十米の強風に煽り立てられている。例えるなら、膨大な火炎放射か、仕掛け花火の様だ。
炎が真近に迫る、五分も立止まって居たろうか我身も危なくなり、仲通りに引返して、農協醤油工場までひた走る。
既に仲通り農協鉄工場と、同職員の東海林さん、坂東さん宅が燃え出して、正油工場の板壁が煙ってそばに一時も立止まって居られない。
加藤庫一さんが、火映えと煙で真っ黒な凄い顔で必死にバケツに水を汲んでは、広い醤油工場の壁にかけている。手伝うどころか、言集も出ない。今にも燃え移る状態だ。風も南西に吹き変っている。
この時になって漸く、土管工場の危険な事に気が付いた。百米程離れている工場方向へ、煙炎が全部鉾先を向けているのだ。「土管工場が危ない!」
危険な筈である。土管工場とは名ばかりで丁度一年前に工場長に望まれて入社した直後、当工場の製品は原料粘土が良質でない理由から道内六ヶ所のうら、一番最初の閉鎖対象となったのであった。仕方なく、工場長以下二十数名の退職金百方円と、同額の親会社からの借金の、合計二百万円で、工場一切を従業員の名儀で買い受けた。
『土管が駄目なら縄工場で』と力を合わせ、その名称も元の農材工業KKで、藁縄づくりに変身し、僅か十ヶ月目だった。その上藁すべが沢山出るのを活用して、当時全町内で副業ではやっていた養豚、養鶏まで手掛けた。親豚三頭、仔豚「生後二ヵ月」十五頭、鶏二十羽を、工場の一隅で飼育していた。
その為、工場を含め付近一帯が焚付同様のものばかりであった。
工場内には、農協納入用の製縄が、ぎっしりと出来上がっており、屋外には、格納出来ない稲藁の束が、山積されて放置されていた。
工場に引返して見ると、事もあろうに、社宅住まいの男子従業員六名は、今日の電休日を利用して、豚の餌にする山菜採りに旭野方面に出掛けて不在。留守番役の工場長が、机の引出しや帳簿類を抱えては表の線路稼の草原に持出している。
豚飼育ではエキスパートだった中川漬さんがいち早く駈けつけ、親豚三頭他仔豚を屋外に連れ出し、風下の空地や、線路越しに避難させてくれている。
工場長の「高橋君、屋根が危ないから、見てくれ」という声に、慌てて屋根に駈け上る。
広い屋根だ。三〇〇坪に加え、前述の通り昭和十七年頃の建物だから、木造板壁に柾葺き屋根、柾も踏めばポコボコとくだける有様。ガラクタ体育館の様な大きさの屋根に、たった独りで火の粉相手は勝負にもならない。
前を見ると、八十米程先の高田さん宅では、風上からまともに火を被っていながらも、植えてあったトーヒ並木が防火帯となり、健在であった。島津用水がすぐ前を流れており、家族と苗植えの人達が懸命に水をぶっかけている。
反対側に目を移すと、風下線路上に、意外にも消防車の赤い色が白に入った。美瑛の硝防車だと後で聞いたが、二十七号の踏切りから、汽車の様に線路上を走って、コルコニウシュベツ川の鉄橋上から水を揚げようとしたのだろう。
然し土管工場地帯には、一滴の水もかけられなかった。それは折り悪しく、駅に上り列車が到着、その発車の為のスツタモンダの末に、消防車は線路上から姿を消したらしい。
それははんの一瞬の映像だったが、遂に正油工場が炎を吹出し、覆い被さってくる煙、バラバラとあたり一面に落ちてくる柾切れはブーメランのようだった。
足元の柾がボソボソと煙を出したと見る間にポアーツと火柱になる。履いている長靴の底を通して、足の裏が火傷しそうだがもみ消した。バタパタ、五米先でボアーツ、バタパタ、ドンドン。今度は十米の先だ、前だ、横だ、後だ、水、水、水が欲しいが、叫ぶいとまもないし、助っ人も見当らず、まるで牛若丸の歌の様に、ここと思えば又あちらと、孤軍奮闘で唯々踏み消さねばならぬの気持らだけ。(ところが、先頃伊部酉市さんから聞いて知ったが、伊部さんは、同県人の高田さん宅に駈けつけて手伝っていたが、土管工場が危ないのを目撃して、私と同じ様に工場の屋根の上に登って踏み消しを手伝ってくれた由である)
無我夢中で走り回っているうちに、今度は最も間近にある赤レンガ倉庫の屋根からも、バラバラと大型の火の粉が飛んで来る。一体風はどんな吹き方をしているのか、斜めから、前から煙、火の粉がくる。おそらくつむじ風が起きるのだろう。
とても駄目だッ。途端に下でワアワァと急に騒ぎ声が起きる。下に降りようと梯子に手をかけた時、すぐ横手の棟木の下に三十糎位の穴があいて、板壁に大きなバーナーの先を当てた様な音をたてて、そこから炎が工場内になだれ込んでいる。
遂に万事休す。梯子から飛降りて工場の横に走った。すると、外積になっていた稲藁前で、手伝いに来た農家の人が一人ワワーッと両手を挙げて飛び上った。目の前に山積された稲藁が一度に火の山と化し、燃え上ったのだから、驚きと恐怖のあまり「お手上げ」とはこの事をいうのであろう。
工場内の煙をくぐり、六、七人の手伝いの人達が五百sに近い重さの鉄製畳表織機を、外に引っ張り出してくれた。
この頃山菜採りの連中も息を弾ませ帰って来た。しかし工場内に火が回って、もう手の施し様もないので、各社宅に散って行った。留守番の家族達が少しでも家財道具を持ち出すことが出来たものか、気がかりだった。(ところが、折角外に運び出した品物も、殆ど飛火したり熱気で焼けてしまっていた)
工場全体、付属建物、住宅が一度に燃え上がって、夕闇迫る中空に、巨大な火柱があたり一面を照らして舞い上る。真っ赤な炎の中に、工場の骨組みが見える。熱い!とにかく熱い!五十米位離れて線路縁に立っていても、体が焼けそうだ。只、呆然自失で立ちすくんでいるだけである。
折りも折り、今まで風下で避難しているとばかり思っていた親豚が、こともあろうに、今まさに崩れ落ちるばかりの建物の炎の入口へ、一頭そして又一頭と走り込んで行く、どうする事もできない。とうとう三頭全部が焼身自殺である。
風下で煙にまかれ、熱風に驚き、そして古巣の場所に飛び込む、動物の習性だろうか……。
親豚について来ていたのか、仔豚一頭が、真直ぐ南へ走り抜けて行くのが見えた。
この仔豚は、自宅の横の小屋で育てたもので、仔犬の様に馴れて、いつも散歩に連れて歩き、事務所入口も鼻で開けて入るのを覚えた。ストープの側で一日、私の帰る迄寝そべっていて、よく客人に犬と間違われた通称ブー子であった。鎮火後、赤レンガ倉庫の北壁下にあった濡れた藁束に、頭を突っ込んでいるのを見つけられた。お尻に赤むけの火傷を負っていたが、助け出して、寅吉兄宅に預け育てて貰い、後日失業した我家に、尊い財源となってくれた。
すっかり焼け落ち、あたりが薄暗くなった頃下り列車がゆっくり入って来た。見上げた列車の窓から顔見知りの人達が皆驚きの声を上げていた。
火と煙で真黒くなり、疲れとこれからの生活の思案で、魂の抜け殻のようになり、茫然と立ちすくむ私達の姿は、さぞかし「みじめ」そのものであったろう。
皮肉にも、暗くなって風が止み、静かに静かに小雨が降り出した……。ガラーンとした焼野原を眺めた近隣の人達は、そこに土管工場の姿が消え失せているのに気付き、予想外の被害の跡に、改めて唖然となった次第である。
シベリヤ抑留から復員して間もなく、私は国鉄職員から土管工場に転職し、そして結婚一年六ヶ月。この短い期間は、目まぐるしいばかりの出来事と苦労の連続であった。
六町内から当社宅に引越して七ヶ月、妻が退院して十五日目、そして、工場が土管作りを中止して縄づくりとなり、豚、鶏、畳表まで作り出し、やりくり算段の経営がなされたのもこの一年六ヶ月の間であった。このドラマが、僅か三時間足らずのうちに灰じんと帰した訳である。
若さだけが頼りの三十才、春の出来事であった。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一