郷土をさぐる会トップページ     第02号目次

七十年の歩み

東中九 伊藤 勝次(七十八才)

福井県から移住した父
父は明治三十六年二十二才の時、福井県坂井郡金津町から渡道し、石狩郡新篠津村に入植しました。
明治二十八年二十四才の時結婚し、私の姉、兄は新篠津で生まれました。明治三十五年富良野村(分村前の字上富良野)に移住して駅前に住居を構え、私は此処で生まれました。
父は、母親の乳が不足していたため、近所の伊藤家の貰い乳で育ったのが元で、伊藤家に懇望され、養子に迎えられて家を継ぐようになったと聞かされています。
父は世話好きで、近所で面倒な問題が起きるとすぐ相談が持込まれ、また色々なことに詳しかったこともあって人の世話をよくしていたようです。
大変酒の好きな親父でしたが、味噌、醤油なども自分で製造していました。
他人の保証をして貸し倒れになったり、差押えを受けたりして随分苦労をしたようです。駅前に村で初めて二階建の家を建て、母親の名儀で、はたご等をしていました。
今の旭野の名称を十人牧場とも言いますが、その土地は明治四十一、二年頃、父が十人の仲間と共同で牧場を経営し附与検査を受けた土地で、父は実際には入地しなかった様ですが、十人牧場の名は父が命名したと聞いています。
その後土地が分割され、父の名儀になっていた土地が転々と売買されて、昭和二十三年私が知らずに買った山林が、明治時代に父が所有していたものと後日判明し、くしくも宿縁であると思っています。
明治時代の駅付近
市街地は駅前から早く開け、商店も相当並んでいました。駅前から言うと角が〈乙北川旅館(今の日通営業所のところ)、福屋新さん(現在の星野宅)、次が私の家(今の割烹いろは)で、次が後藤さんで荒物・雑貨店を営み、息子の栄二郎さんと二郎さんとは私の友達でした。菅野伴三郎さん(菅野チエさんのお父さん)も番頭をしておられたようです。その隣りが菅原さん、落合さん、伴獣医さん、市場の順でした。今の阿部家具店の処がそうです。市場の斜め向いは鉄道の官舎がありました。
伴獣医さんがよく乗馬でさっそうとして行く姿を見て、子供心にかっこ良いな、と憧れたものです。
元の食糧事務所の付近で金崎甚之助さんが運送店をしていました。駅前の自転車置場の処には小田島という運送店があり(?小田島晋さんのお父さん)、そこには井戸があって良い水が出ていたので、付近の人々みんなが利用していました。この運送店は後に山本さんが譲り受けました。
その頃は木材が沢山出て、駅の周辺は木材の山でした。城の口さんは駅前で飲食店を経営していて、白玉餅などを名物として売っていました。村で二番目に二階建ての家を建てたのは泉川さんで、茂雄さん、丈雄さん兄弟がおられました。泉川さんの父さんは怪我をされてから代書業をしていました。
今のフクヤ薬局の処には下村商店、丸一雑貨店の処には伊藤富三さんの叔父さんの喜一郎さんが雑貨店をやっていました。
今の守田さんの付近に『共楽館』と言って、田村徳市さん、葛山勝太郎さんと親父の三人で経営した芝居小屋があり、女鹿一八という武道の達人がいて剣道を教えており、大変盛んで、佐藤敬太郎さん等も習っていたと聞いています。共楽館は後で上富劇場の処に移動しました。
病院は山藤さんが軍医上りで、今の渋江病院の処で開業していました。大正四年頃と思いますが、旭川市の向井病院で勤めておられた飛沢清治先生をお迎えし、中通りの松の湯付近で開業され、困った家庭の患者も良く診てくれたので、村民から慈父の如く感謝されていました。
郵便局は元の役場前、今の久保商店の処に局舎があり、局長は河村善次郎さんでした。河村さんは頭の良い方で人の話しもよく聞かれ、何でも経験された方でした。造林にも深い開心を持たれ、村でも早くから植林され、立派に管理されたので林相もよく局の森と言って市街の人々に親まれていました。
牛乳配達
私が小学校四、五年の頃は生活の苦しい時代で、毎日学校から帰ると六才年上の姉と二人で、今のホップ園の処の本間牧場まで五升入り缶で生乳を運びに行ったものです。六平忠男さんが監督をしていて、事務所、牛舎もあり、乳牛も数頭飼育していました。
牛乳はサイダーびん等に入れ、翌朝、兄が市街地に配達し、私は海江田さん宅まで毎日届けました。そのため学校はときどき遅れてしまう事もありましたが、市乳の配達としては、上富良野村でも早い方でした。
兄は十四才で小学校を卒業、旭川市山形勉強堂という薬屋に勤めるようになりましたが、「自分と同じ年の者でも学歴がある者は給料が高いので、僕も勉強したい」と言い出し、東京に出て病院に勤めながら学校に通いました。その後東京で暮すようになったので、私が家を見なければならなくなり、勤め先の札幌の海産物問屋を辞めて上富良野に戻り、家業を継ぐことになりました。
消防団員として
私は消防団員として、昭和七年から昭和二十一年まで勤めました。その頃の組頭は吉田吉之輔さんで、私は小頭で、林利牧さんが班長でした。奉仕の精神に徹していたのでしょうか、皆よくやりました。機械係が十七名で、毎月の出番には全員が出て手入れをし、点検整備をしたものです。
昭和十四年三月警防団が設置されることになり、従来の消防組は自動的に警防団となって、全村が五分団に分けられ組織されました。
団長は吉田吉之輔さん、副団長は二名で、消防関係担当が長谷勝義さん、警防・灯火管制担当に高畠正男さんが任命され、消防部長は私で、警防部長は金子小二郎さん、灯火管制部長は毛利勝太郎さんが夫々担当していました。
吉田吉之輔さんが転出されてからは高畠正男さんが団長になり、金子小二郎さんが副団長になりました。私は引続き消防部長の職にあったため、徴用にとられずに済みました。
スキークラブの結成
十勝岳爆発後、泥流跡や三段山がスキー場として有名になり、昭和三年にはヘルセット中尉が七師団の軍人を連れて、十勝岳で十日間のスキー講習会を開きました。翌四年にはオーストリアのスキー学校長のハンネスシュナイダーが山に来られ、『雪質は日本一だ』という折紙をつけられ、今でもシュナイダースロープと言う名が残っています。
一般にもスキーが認識されてスキー熱が高まり、その後役場の本間庄吉さん、長井禧武さんや市街地のスキーに関心のある方が集り、昭和七年頃と記憶していますがスキークラブが結成され、初代会長に村長の吉田貞次郎さんが就任されました。
垂水山で第一回のスキー大会が催されました。十勝岳には白銀荘、勝岳荘のヒュッテも建設されて、スキー客も年々多くなり、会員がガイドを勤めたりして喜ばれていました。その後北大スキー部が毎年十二月に吹上温泉を基地として合宿訓練が行われ、大東亜戦争が始まるまで続いていました。当時村長が会長になったのは、育成のため助成費を出す都合もあったようです。
大正十三年頃上富良野でも〃アルパイン式〃と言って単杖(一・八メートル)のストックを使用した方もいた様ですが、一般に普及され滑り始めたのは〃ノルウェー式〃で、ストックは現在と同じく二本使用していました。
私は二木さんや二葉屋の佐藤さん等とよく垂水山に行ったものです。二木さんは両膝を揃え格好よく滑っていましたが、私は膝を深く曲げ、山岳用として安定したフォームで滑っていました。
現在、私は日の出山スキー場の沿道に住んでいるので、よちよち歩きの坊やや家族連れでカラフルなヤッケを着て往来する姿を見るにつけ、昔を思い出します。近年歩くスキーが普及され、老若男女を問わず愛好者が急増していることは、雪国に住む者として、健康増進のため誠に喜ばしいことです。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一