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上富良野開拓と馬の普及

加藤 清(六十三才)

上富良野の開拓は、なんと言っても馬の力に拠るところが非常に大きい。
馬の普及・導入・改良のため・親子三代に亘って貢献された松原家の功績は、誠に大きいものがある。古老の方からの聞き伝えや文献に依って、先代勝蔵氏の業績を取りまとめてみた。
松原勝蔵氏は、明治九年二月十九日兵庫県淡路島に生れた。幼少の頃、父清次郎氏と共に渡道。雨竜郡一己村旧菊亭農場に入地、開拓に従事されていた。当時馬にかけては神様と言われていた深川村の大原久平氏の下で、馬に関する勉強を積むうちに氏に見込まれて妹リャウさんと結婚。
明治三十二年二十三才の時、農耕馬四頭を引き連れて、東中中島農場開墾の計画を立て、東八線北十八号に住いした。熱心に開墾に従事する傍ら、周辺の未開地までも積極的に畜力を以って拓かれた。東中周辺の開拓は殆ど氏の力に拠るものと、その業績は広く人々から賞賛されたと言われる。
氏は生来義侠心に富んだ人で、学校建築を始め、道路、橋梁、神社、仏閣等あらゆる方面の施設建設の発起人となり、卒先して寄付を施した。また難儀している人々を見ては、進んで救いの手を差し伸べる等、その行為は常に部落の人達から敬慕されていた。
明治三十五年不幸にして火災に遭い、家具、家財を全部焼失するというものであった。しかし氏の剛気な開拓者魂は、之に怯むことなく、災い転じて福となすの気概を持って、同三十八年には、中島農場主より土地十町歩を買い受け自作農となり立派な経営をすると共に、その傍ら馬の売買を業としていた。
氏と同じように、妻のリャウさんも馬を見る目はなかなかのものであったと聞かされている。それで馬を売り捌くのは、主として奥さんであるリャウさんの役目であった。ある時私が所用で、松原家にお邪魔しに行くと、東中の某氏が先に買った馬を返しに来ていた。何か気に添わないことがあっでのことかと思われたが、奥さんがいろいろと話しされた後結局その方は、またもとの馬を喜んで引いて帰ったのだった。
また、松原家の家の前には池が造成され、鯉を放してあったと言われているが、開拓当初の忙しく殺風景な時期に、生活にゆとりを持つ優雅な一面が偲ばれる。
さて、松原氏の他に、先の大原久平氏について学んだ人に富良野の吉田鉄次郎氏がいる。松原勝蔵、伊藤正信氏が上富良野を代表する人なら、吉田鉄次郎氏は下富良野(現富良野市)を代表する人で、この方々は富良野盆地の畜産界を代表する人材であったと言われている。
毎年秋になると、産地では馬市が開かれていたがここで、「大原、松原、吉田の各氏が来ないと市場が始まらない」と言われる程大きな力を持っていた。
明治四十五年に、上・下富良野牛馬商組合が結成されて、当時彼等は『牛馬取扱人』、『牛馬商』と呼ばれていた。
農耕馬の確保は農家の急務であった。生後一ヶ年半程育成した馬を明二才といい、これを調教して、翌年明三才から農耕に使用した。牛馬商は、この需要に応えるため産地から馬を買い集め、農家に売り捌いていた。
鉄道のない時代には日高・十勝・釧路(産地)の馬は、狩勝峠を越し占冠を通り、空知・上川(育成地)に販路を求めていた。陸路輸送でバラ追と称して、先頭は乗馬で誘導し、間に馬をはさむようにして、後から乗馬で追う、こうして上富良野に着いてみると、一・二頭不足していたこともあったという。
また、親馬の尾に、明二才の子馬を繋ぎ、次々に十数頭も連結して牽馬をし、輸送した。その頃は道も悪く、急峻な難路では馬を尻から押し上げて通過したともいわれる。
こうした風景は、鉄道の開通に伴い、馬も貨車輸送となり、次第に見られることもなくなった。
北海道の馬の需要も、農作業用、造材運搬用として大型の馬が要求され、馬がなくては北海道農業は成りたたない程となって、年毎に多くなって来た。
そこで、農家が容易に農耕馬を入手できるように、大原家から資金の融通を受ける貸付制度が設けられた。この方法を実践したのが松原氏で、南部方式ともいわれ、南部馬が全国でも有名になった要因となっている。
北海道では、深川の大原久平氏、日本釧路種を生み出した釧路の神八三郎氏、上富良野の松原勝蔵氏の各氏が、畜産界の重鎮として人望も厚かった。
大正十一年、摂政宮殿下(今上天皇が皇太子であらせられた頃)が、釧路の家畜市場の実状を御台覧遊ばされた時、松原氏がせり取人に推薦されたことがあった。殿下が御満悦なさった時の模様を詳しくしたためた神八三郎氏からのお礼状は、今でも、家宝として松原家に保存されている。
松原氏の豪放闊達な性格は、往年の幡随院長兵衛と称され、その活躍は、実に面目躍如たるものがあったと聞く。
馬の確保のために、産地と農家を結んで移入に務め、馬の更新と改良にも大きな力となった牛馬商(一般に馬喰という)松原勝蔵氏は、上富良野町の歴史に大きな功績を残している。
・馬頭観世音菩薩の碑
明治三十五年、松原勝蔵氏と真野喜一郎氏の寄贈による碑は、現在東中土地改良区の裏に建立されている。八十余年の風雪に耐えて、地域住民により毎年お祭りが続けられ、明治当時からの信仰の心が受け継がれている。
・ドサンコ(道産馬)
ドサンコは、松前蝦夷記によると、江戸時代十八世記の頃、かなりの数が野生の状態で放牧されていた。
これは寛政年間に、津軽・南部の出稼人が北海道の漁場で働き、仕事が終って帰郷する時、用済になった馬を山野に放ったものである。翌年来てみると、一冬越した馬は、山の笹や、海岸に流れついた海草を食べて生きていたという。低身広躯で困苦欠乏に耐えたものが、自然繁殖したもので、その後、これに洋種が交配され、改良されている。
明治三十年の松前藩の調査によると、近くの和人の住む七十三ヶ町村中、四十六ヶ村までが馬を持っていたという。
ドサンコは、開拓時代の険しい踏み分け道を重い荷物を背に積んで、上手に歩いたので重宝がられたし、また粗食でありながらがまん強く、農耕馬としても、北海道の開拓の大きな力となっている。
最近の新聞報道によると、道和種保存会では昭和五十四年から、富士山の五合目からの乗馬登山を始めており、「ドサンコ」の粘り強さを証明している。
・絵馬師露山と松原家
馬の好きな人なら、露山の描いた馬の絵を持つことを、大変誇りにしている。
師の本名は畑中といい、足寄町出身で、少年時代馬と起居を共にしたと言う程、無類の馬好きであった。若い頃は、馬車追を業としていたというが、大正初期に、松原家に二年程寄寓しており、それ以後は毎年春になると松原家を訪れ、馬の絵を措いていたという。晩年は、札幌市白石区に住み、七十八才で逝去された。
師に関する逸話として、或る人の愛馬の絵を依頼された際に、飛節軟腫をそのまま描き、「画家としてその心境を偽って描けない」と語ったという話がある。師は特に、八方睨という絵が得意であったといわれる。
人は、遠い昔から、馬を良き友として生活してきた。馬は、人間にとってなくてはならない存在であり、産業・交通・軍事の原動力であると共に、北海道農業の発展を支え、大きな力となって働いて来た。
しかし、現在では、その数も僅かとなり、自動車の普及、農業の機械化等によって、農耕馬として飼育する人は皆無といってよい程になってしまった。
開拓以来、馬を導入し、農業の振興を図った往時の人と馬の関係は、今では遠い昔の語り草となってしまっている。
・町議会議員として行政に貢献
行政面に於ても、松原家は親子三代に亘り、町議会議員として町行政の伸展に尽粋されている。
   初代勝蔵氏 大正八年から二期六年
   二代照吉氏 昭和三年から八期二十八年
   三代勝俊氏 昭和四十六年から一期四年

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一