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続 戦犯容疑者の囹圉記

故 岡崎 武男

囹圉記(その二)
十一月二日
朝夕二回の点呼には、英人所長の厳重な点検が行なわれ、清潔、整頓、軍紀、禁制品等の問題で、ほとんど毎日の如く懲罰を受けるものが出た。総てが厳罪の二字で律せられた。
    連合軍 二言目には 射殺する

十一月四日
英人に対する敬礼は強く要求され、これもまた厳罪の名に於いて強制された。
又、獄中における諸動作は全て駈歩の動作を要求され、炎天の下に敏活な動作を示さなければならなかった。
    駈歩の 動作も辛し 獄の飯

十一月五日
毎日使用する水の供給も全く僅少で、洗面には飯ばちで一杯、水浴は二杯と制限され、炊事にまで節用せねばならなかった。
    一滴の 水も尊し 獄ぐらし

十一月六日
病院生活で戦友とも別れていたが、入獄して再会の機会を得た。入院の為、皆よりも一ヶ月遅れて入獄した事が、何となく皆に相済まぬ様な気持ちがする。

十一月七日
薪の支給が十分でないため、適量の糧まつを受けても、これを炊事する事が出来ない。
この頃一日一食で、朝は塩汁をすすって我慢せねばならない日が続いた。

十一月八日
監房は常に施錠され、食事の時、体操、雑役等の時間のみ解錠された。
大監房に収容された吾々は、舎前を英人、黒人将校の来往頻繁な為、四六時中敬礼していなければならなかった。
    獄の中 跛足にやける 石畳

十一月十日
入獄して一週間ほど煙草のことも忘れていたが、禁煙させられているはずの監房内に、時折紫煙の臭が流れて来る。窮すれば通ず。これ程軽重な獄中生活にも、煙草の流入する隙間はあった。
一日にほんの一服ではあるが、歩哨の警戒の眼を逃れて腹に吸い込む紫煙の味は、何にも勝ってうまい。
    雨漏りて 寝る処なき 獄の夜
        毛布たたみて 闇にたたずみ

十一月十一日
前途が如何に暗たんたりとも、再び釈放されて帰国の幸運に恵まれる時の来るのを待ちわびている吾々の間には、無聊な毎日の獄中生活に、真偽不明のニュースが頻々として飛んだ。情報確度疑しいとは思いながらも、又翌日を楽しみにしていた。

十一月十二日
    冷たくも 鋭く狙む 望楼の
        銃機の下に 吾は起き伏し

    花もあり 鳥もさえずる 嶽の庭
        優しき月も 出づる事あり

十一月十三日
敗戦の憂目はあったが、日本軍が世界一の軍隊であった事は、何人といえども之を認めている事が窺われる。吾々のキャンプを巡羅する英人の自衛振りは、むしろこっけいなぐらいである。日本は、世界を相手にしたから負けたのだ。一国と一国との戦ならば、世界の何れとも負けなかっただろうと、グルカ兵さえも云っていた。この様に獄生活をしている中に、色々な所でそれを実証し得る場面に出会った。

十一月十五日
刑務所の警備兵は、おおむね二週間毎に交替する。交替すれば、必ず当初は全てが厳重になり、又、所長の対日感情や黒人部隊の人種、宗教観によって、吾々の彼等に対する態度をも改めねばならなかった。
下番英兵中には、無事に警備の任を終えた事を喜び、吾が隊長に謝意を表して別れたものもあった。

十一月十六日
今日もまた、幾度目かの首実験に引き出された。
オランダ、フランス、印度、泰等色々な人煙が、吾々の前を幾度となく通り、顔を穴のあくほど眺めている。そして、首実験の度に数名の犠牲者を出さねばならなかった。指名された者は、皆独房に移された。
    今日も又 並んで受くる 首実験
          敗戦の士 唯黙々と

囹圉記(その三)

昭和二十年十一月十七日
毎日の様に続けられる首実験や呼び出しで容疑者として指名された者は、皆独房に移されて戦犯の取調がなされている事が、毎日差入れに行く食事当番による情報として伝えられた。
このバンワン刑務所に収容されている者の中にはかつてシンガポール作戦に参加し、引続き治安工作に勤務した者が多数居り、これが、戦犯容疑者として索出の重点になっている事が解った。
毎朝六時頃、必ず南に向って飛ぶ飛行機があったが、この飛行機によって、毎日の様に索出された容疑者がシンガポールヘ輸送されている様である。
吾々はこれを定期便と呼んでいたが、前歴のある者は、この定期便の騒音を耳にするのが断腸の思いであった様だ。
    昭南へ 送られてゆく 戦反を
          窓辺に送り 吾も淋し

十一月十八日
刑務所の夜が明けた。いつも六時には監房の施錠がはずされるはずなのに、今朝は警戒兵が右往左往している。
脱走兵があったのだ。
この為、吾々に対する警戒は益々厳重になった。
つまらぬ事をして呉れたとは思いながら、唯彼の前途安泰を祈るのみ。

十一月十九日
雨季明けと云うのに、しばしば雨が来る。南方と言えども、夜など雨が降ると、何とも言えない底冷えがある。病院から収容されて二十日になるが、コンクリートの床に一枚の毛布で暮らす様になってから、すっかり身体が弱ってしまった。
毎日、憂鬱な日が続く。
夜半に監房の片すみの者から、突然大声が上がった。さては、何かやって警戒兵にやられたかと、皆驚いて起き上がったが、「さそり」に刺されたのである。本人は、青い顔をしてうなっている。
早速患医を呼んで手当を加えたが、惨めな生活は虫けらに迄悩まされる。

十一月二十日
点呼を終えて就寝してから、どこからともなく出獄移動の情報が伝って来た。
前述は全く不明ではあるが、待ちわびていた出獄だけに、一晩中気持が動揺して眠る事が出来ない。不安の内にも嬉しさはあった。
    月あかりの 獄の窓辺に 寝もやらず
              友と語りぬ 出獄の夜

十一月二十一日
不安と動揺の内に出獄準備をする。
十一時三十分、二列縦隊で刑務所の門を出た。見ると、英人の兵隊が各々自動小銃を、立ち射ちの姿勢で構えて、百名位はいるだろうか。その後方を見ると、驚いたことにはトラックが四、五十台並んでいる。
このいかめしい輸送振りに吾々は先づ度肝を抜かれた。一台のトラックに十五名づつ乗せられて出発したが、同乗した警戒兵が、自動小銃の引き鉄に指を入れて吾々に向けているので、振動のはずみで弾が飛び出さないとも限らない。全く、生きた気持がしない。約二時間、良いゴム林の間を走ってドモアンキャンプに送られた。
ここは、元泰国義勇団の兵舎であったとか。刑務所と比較すれば、ここは裟婆である。ただ鉄条網が吾々の自由を制限しているのみである。
遥かに大平野の地平線に浮かびあがる白雲をも眺められる。開放的気分を満喫するに不足はない。キャンプ内の行動も、ある程度緩和された。

十一月二十二日
ドモアンキャンプの生活始まる。ここは一帯の湿地帯で、雨期は沼になっている。雨期明けて間もない現在も、まだ通路以外は沼で、兵舎の床下も一尺位の水が満々としている。
英人の指示によって、衛生上と兵舎美化の為、色々な作業が始まった。一日中休む暇がない。沼地帯である為水蛇、さそり、むかでの多いのに悩まされる。

十一月二十三日
炊事の薪がないため、鳩舎の跡を壊すことにしたが、小屋に入るや、身体中に無数の蚕が飛びついて来た。青蛇の太い奴が柱の蔭から現われて思わず飛び出した。

十一月二十四日
朝霧の濃い明け方、又もや泰所属の憲兵軍曹一名脱走す。聞くところによると、終戦の時からの計画で相当な資金を用意し、泰人娘の手引である由、これがため、又英人の吾々に対する開放的取扱いも、刑務所のそれに逆戻りしてしまった。うかうか夜中に小便にでも出たら、有無を言わさず銃殺である。
一名の脱走行為が全軍にこれほど影響する事は、前にも体験した事である。
脱走する彼も又命がけであるならば、ただ無事を祈るのみであるが。
     朝霧に 消えて逃れし 友のあり
        うらみ足らずも 無事を祈らん

十一月二十五日
ドモアンはバンコック市の郊外に位置し、国際飛行場がここから四粁位のところにある由、終日白雲の間を縫って離着が繁しい。飛行場に通ずるチェンマイ街道の並木が、遠く遥かに内地の松並木を思わせる。刑務所を思えば、これらの景色が窓から眺められるだけ幸福である。
     何もかも 浮世の事を 投げすてて
          此の地に住みて 見たいと思えど
最近は戦犯の取調べもなく、専ら吾々のキャンプの警戒陣地を吾々の手で造る事が毎日の仕事である。

十一月二十六日
英人の指示により、警成望楼の増設と一区割に鉄条網の構築作業が始った。
沼地帯に褌一本で腰まで入り、ヒルや水蛇を警戒しながら、一分の休憩も許されない。昼食の為にも催か三十分の時間が与えられただけであった。
以降、次号に続く

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一