郷土をさぐる会トップページ     第02号目次

続 二度の撃沈から生還

東中 谷口 実(七十一才)

前号のあらすじ
末教育補充兵だった谷口さんに召集令状が来て、同僚四十数名と共に、歓呼の声に送られて上富良野を出たのが昭和十八年九月三十日。
「万歳、万歳」とそれは多くの見送りの人の列が、ホームから百米も続いた。汽笛一声汽車は動き出したが、最後の別れに、機関士さんの好意で静かに長い徐行が続く。
満洲要員ということで、十月二十二日満州国東安省第七百八十部隊に入隊。当時陸軍でも最強を誇る関東軍は、ソ連国境に備え、厳冬期を迎えながら猛烈な訓練を続ける。
ところが翌年三月六日急遽東安を離れることになり、列車は大陸を南下して上海へ。ここで南方戦に備えての、俄か訓練の二十数日。間もなく輸送船、護衛艦合わせて二十八隻の船団が編成されて上海を出航する。
敵潜水艦出没の情報しきりだったバシー海峡にさしかかったのが、四月二十六日深夜。果して三千五百名の乗った第二吉田丸(六千トン)は敵潜の魚雷攻撃を受ける。一発は避けたが、二発目は命中。船は三分を経ずして轟沈した。
戦わずして兵員三千人を失ったが、谷口さんは幸運にも渦巻く荒海から逃れて、浮遊物につかまり漂流すること三時間。駆逐艦「朝風」に救助され、数少ない生還者の一人となる。
救助艦はマニラに入港したが、谷口さんは健康を損ね、野戦病院に入院一ヵ月。退院して帰隊したがもとの部隊は「ハルマヘラ」へ移動した後だった。
そして、静岡県出身者の多い「楓」部隊に編入されて赤道を越える最後の補給船といわれた「メキシコ丸」に乗り込むこととなる。
赤道一路
(昭和十九年八月十五日)
明治四十三年に進水したという五千八百トンの老朽船「メキシコ丸」も、恐らくはこれが最後の御奉公であろう。赤道へ行く最後の輸送船といわれるだけあって、甲板から船底に至る迄およそ積めるだけ積め込み、載せられる限りの物資を載せた。
船長が制止しても、陸軍では隙間のあるうちは積めと、片端しから船艙に荷物をぶち込んだ。その結果、一番船艙は重油で一杯になったし、ニ、三番船艙は弾薬、四、五番船艙は糧秣、六番船艙には薬物その他でそれこそ満船になってしまった。そしてこの他に、実に七千名もの兵隊が乗船したのである。
しかも私達の中隊は、またしても重油艙の上部、一番船艙に入ることを命ぜられたのだった。それは宿命というにも、あまりにも危険性の多いものであった。
どうしても船艙に入り切れない兵隊は、甲板上のおよそ利用し得る限りの場所を、片っ端から占拠していった。ウインチの上部にも二、三人腰かけていたし、マストを引っ張っている鋼索にもブランコ式ハンモックが数多く吊られたばかりでなく、便所のすぐ傍や、船首の錨の穴にまでも入り込む始末であった。
私はメキシコ丸に乗って、再び重油の臭いを鼻にしたその時から、船艙に入ることは避けて、甲板で寝ることに決めた。寝るといっても、楽々と手足を伸ばすことなど、到底叶わぬ現状だった。
このようにして、再び想像もつかぬ程の混乱と不安の交錯する中で、苦しい船内生活が始まった。船内は重油の異臭と炭酸ガスが充満して、炎熱の日中ならずとも蒸し風呂のようで、その上食事は一日二食、一食につき百グラムで正油汁ばかりには閉口した。
又危険物を船艙に積んでいるので、船室内は勿論、前部甲板での喫煙は禁じられてしまった。
それにも増して、猛烈なスコールで一晩中一睡も出来なかった事があり、その時は非常に辛かった。
丁度マニラは雨期が近づいていたので、毎日午後になると、豪雨で甲板上は水浸しとなり、飲料水が不足していたから、兵隊達はこの雨水を飯盆に溜めては飲んだ。
こういう状態が続き、本船はいつ出航するとも知らされないまま、マニラ湾に錨を下ろして待機していたのだった。
八月十五日、いよいよ一路赤道に向って出帆することとなった。本船は僚船一隻と、海防艦らしい小さな護衛艦四隻と共に、牛歩の速さで進んだ。敵潜を避けるべく、沿岸の安全海域を通るらしく、どこ迄も陸地が見えている。これからセレベス海を縦断して、目指すメナドへ到着する迄、十日はかかるだろうと思った。
十七日セプ島のセブに寄港、二十日ミンダナオ島のサンポアンガに入港したが、潮流の速いことで有名な所だ。原住民が小舟に乗って、いろいろな物を売りに来るが、余程早く買わないと、舟は流されて買いそこねてしまう。
二十二日にはホロに入港、いよいよここからセレベス海を一路南下して、セレベス島東端のメナドに入るのだった。
ところが、二十四日にホロ島を出帆したにもかかわらず、二十五日未明、僚船が機関部に故障を起こして航行不能となり、護衛艦がこれを曳行し、全船団を挙げて一旦ホロ島へ引き返すことになってしまった。
南海のこの一小港に三日間停泊したが、何としてもその故障が直らず、やむを得ず私達のメキシコ丸のみ、二隻の護衛艦を従えて、二十七日ホロ島を出発した。
アッ敵潜、メキシコ丸が被雷
(昭和十九年八月二十九日)
船団は敵の飛行機と魚雷を避ける為、昼夜を分かたず、厳重な監視体制で航行を続けたのであるが、速い潮流と暗夜の航行は不安そのものだった。
予感が現実のものとなったのは、八月二十九日午前二時四十八分。我がメキシコ丸は悲運にも、敵潜水艦の魚雷を受けてしまった。
私はこの時、疲労の為深い眠りにおちていたので夢うつつで『雷跡!雷跡!」と言ったような怒号を聞き、ハッと我に返りつつもまだ何が起きたか分からぬうちに、『パダーン』という大音響と衝撃を身に受けた。忽ち船は阿鼻叫喚の巷と化していった。
魚雷を受けた一番船艙付近の兵隊が、後部甲板へ逃げようとするが、満載の資材兵器と人の群れで前進不能、加えて熱湯のような何かが降り注ぎ、両手で頭を抱えこんでしまった。
熱湯のような雨が止んで振り返ると、一番船艙の上はごっそり吹き飛ばされて、ハッチ一帯に物凄い火炎が立ち昇り、一面真昼のように明るくなっているではないか。
一番船艙の重油に引火して立ち昇った黒煙の中でもがいている我中隊の兵隊の姿を見ながら、一瞬頭に浮んだのは、隣の二番船艙に満載されている弾薬のことだった。一刻も早く現場を離れることが先決と、その場から海を目掛けて突進した。
前回のバシー海峡とは違って、波も小さく、潮の流れもいくらか穏やかだが、船の傍は渦巻きで、中々思うように離れられない。火煙に包まれた船は、汽笛を鳴らし続けて、静かに静かに沈没していく。
今度の遭難でも、彼方此方に三々五々集団の形で漂流したが、前回の時の様に、浮遊物にすがることが出来なかった。というのは、船が海面下に水没するのに相当時間があったからで、当然のことであった。とにかく浮いている限りは、護衛艦もいるのだから、必ず救助されると思った。
私は初の体験であったが、第二百吉田丸の轟沈の時より、落ち着いて行動していた。海水温も二十度位はあっただろうか、寒さは感じない。何はともあれ、船から少しでも早く離れることに必死だった。
手足でかいて、百メートルも進んだかと振り返ると、一番船艙の火炎は、ますます熾烈を極めて、時折白い閃光がひらめいている。
と見る間に二番船艙の辺りから、物凄い火炎が天に沖し、同時に巨大な仕掛け花火のような火花が八方に飛び散り、『ダーン』『バッ、バッ』という鼓膜を破るばかりの爆発音が轟き渡った。遂に二番船艙の爆発物に引火したのだ。
恐ろしい光景も静まり、しばらくすると、メキシコ丸の船体は、すっかり海面から姿を没してしまった。それは退船後三時間程経た頃であったと思う。
私は泳ぎ続けた。集団を形作った兵隊の数も次第に増えていった。初めのうちはお互いに声を掛け合っていたが、時間がたつにつれて、緊張と不安と空腹のあまり、遂には誰一人として声を出す者もいなくなった。
泳ぎながら時々睡魔に襲われる、ふと気付くといつの間にか集団から離れている、慌てて追いかけるといった事を、幾度となく繰り返した。
夕陽が西に傾き、水平線の彼方に沈まんとする時一体明日の日迄生きられようかと、不安がひしひしとこみ上げてきた。そんな気持が夜の帳と共に、一層胸に広がってくる。それにしても護衛艦は一体どうしたのだろう……。
しかし私達の唯一の救いの網が絶ち切られて一層の試練を強いられることになる。それは、護衛艦が被雷したのを目撃したのだった。
波に漂っていると、遥かな海上で突然『パッ』と火焔が天に沖し、ややあってから『バダーン』という爆発音が響いた。
轟沈だ!あの護衛艦の一隻が、真っ二つに割れてのけぞるように船首と船尾を上にして、火炎に包まれながら海中に姿を消したではないか。
この有様を目の当たりにして、誰一人声を発するものはいなかった。皆一様に、この後に続く苦難の道に思いを巡らせていた。二隻の中の一隻がやられては、果たしてどれ程の漂流者が収容できようか。
必ずや、何処からか救助に来る船が現れるだろう。その時迄待たねばならぬ。この厳しい状況の前では心を鎮めて自己の体力を維持し抜くことだけが、生きる道なのであった。
(次号につづく)

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一