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医は仁術≠実践された飛沢医師

故 佐藤 敬太郎(八十八才)

私は明治四十一年五月、十五才の時に、叔父千葉源一郎を頼って宮城県から渡道。叔父の下で、畳の製造に従事していました。渡道したばかりの頃からお世話になり、面倒を見て下さった飛沢医師について述べたい。

医院開業

飛沢先生の開業以前は、上富良野には医師が定住していませんでした。当時、内科も外科もできる軍医出身の医師が開業されてはいたのですが、診療が乱暴な上に、病室もなかったので村民もほとほと因っていました。病気をすると旭川迄通わなければならず、それは時間もかかるし出費も嵩みました。そこで上富良野に村医を見つけようという声が上がって来たのです。
その頃旭川には、一条九丁目に星野病院、三条十五丁目に竹村病院があり、巷では『死ねば竹村、生きれば星野』などと言われていました。
そこで村の有志が相談の上、あれこれ評判を取沙汰される中から、向井病院(今の厚生病院の前身)に勤務されていた飛沢先生に白羽の矢をたてたのです。村医として迎えるべく要請しました処、快く承知されたので村民一同大喜びしました。
先生は秋田県大曲市の出身で、御尊父は佐竹藩の御典医を勤められた方でした。
先生が上富良野にいらした当初は、今の銀座通りの竹の湯の付近で開院されましたが、その後中央区の大通り(今の佐藤家具店あたりが病院の玄関であった)に転居されました。ところが大正十三年不幸にして火災に遭い、現在地(もとの長谷川眼科医院)に移転されたわけです。
先生は豪放磊落な性格で、人の面倒を良くみる方でした。その頃は開拓まもない時代で経済的にも余裕のない者が多かったのですが、金銭を度外視して診療されたので、村民からは慈父のように慕われ感謝されていました。
又病院では多くの家畜を飼育していたので、これを世話する若い使用人が、常時十数人は居りました。
この人たちに妻を世話し、土地を求めて分家させ、将来のことも考えてやったので、若い者からも親のように敬慕されました。
私は先生に大変可愛がられ、よく同院に出入りしておりました。しばしば所用も言い付けられましたが、ある時は先生の依頼で道庁に出向き、上富良野と美瑛の境界を調べたこともあります。私は当時の野帖を閲覧し、前十勝の稜線から分水嶺を境界にしていることを確認して帰ったことを覚えています。
更に先生は、非常に実行力があり、何事も自ら体験した後で人に勧めるという方でしたから酪農の先駆者としても、多くの実績を残しました。
道庁の補助牛を江花地区に集団的に導入されたり、自ら緬羊等を飼い農家に飼育を奨められたり、養鶏をし鶏卵の孵化にも取り組まれたりしました。特に病気と栄養の関係に気を配られ、牛乳の効用を患者に広めながら、乳牛の飼育も奨めていきました。
病院の敷地内に牛乳の殺菌施設を設け、短期間ですが牛乳の販売もされたようです。
又この他に種馬、競争馬も飼って、村内の往診を馬で廻っておられましたが、九十余キロの体重ですから、馬も毎年乗り潰すようなことになりました。
そこで、方々に馬頭観音を安置してお祭りし、馬の菩提を供養されました。
温泉の開発
大正八年の夏には、私財を投じて吹上温泉迄の道路を開削。大正十二年から、同志と共に吹上温泉を経営されることになりました。
大正十二年十二月三十日には、義弟の飛沢辰已さんも呼ばれ、温泉の経営に専念されることになりました。山の好きな辰已さんは、勤めていた営林署をあえて退職し、奥さんと子供二人を連れて山に入ったのでした。
昭和七年から、温泉も株式会社になりました。白銀荘と称する道営のヒュッテが建設されたのに続いて、村では勝岳荘を建設したので、姉妹ヒュッテのあるスキー場として、吹上温泉が一躍有名になりました。又ハンネスシュナイダー、宮様、北海道庁官佐上信一氏の来村等、大いに賑わったのもこの頃で、まさしく上富良野が、十勝岳の表玄関であったのです。
定期バスの運行
吹上温泉では、上富良野で一番早く自動車の使用を始めましたが、乗合自動車も、吹上温泉旅館との定期便が運行されるようになりました。その後自動車の権利を大印自動車に譲り、それが道北貨物を経て、今日の旭川電気軌道に移ったわけで、現在旭川を中心に運行されている電気軌道パスの先駆となっています。
このように上富良野の発展の為、数々の貢献をされた先生も、昭和十一年三月二十一日、五十二才で逝去されました。人生はまだこれからという時の先生の死は、私も含めて多くの村民に悼まれ惜しまれたものでした。
編集要員注
昨年佐藤敬太郎氏より本稿をいただき、第二号に登載すべく作業を進めておりました処、本年四月三日天寿を全うせられ、ご逝去なされたことは惜みても余りあります。
佐藤翁の温容に満ちたお人柄は、今ほうふつとして眼前によみがえり、追慕と哀悼の情、切なるものがございます。
ここに謹んでご冥福をお祈りする次第であります。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一