郷土をさぐる会トップページ     第02号目次

役場職員時代の思い出

本間 庄吉 (八十二歳)

私の両親は、明治三十年新潟県西蒲郡四合村より渡道、虻田村に落ち着き、そこで私が生まれました。
明治四十年弁辺村(現豊浦町)に転居。私は同地で成人となり、警察官を志望して所定の教育を終了した後、大正十年六月一日付で富良野警察署東中駐在所に赴任しました。担当区域は広範囲に及び、十勝岳を含め東二線道路迄でした。
大正十二年九月一日から、上富良野村役場(現在の農協もとまち店とスタンドのある場所)に勤めることになりました。それは上富良野が一級町村制になって間もない頃で、吏員も村長以下十名と、今の役場の小さい課位の規模でした。
その頃は、吏員の待遇が不安定でした。というのは、恩給は当時各町村が負担して支給しなければならなかった為、経費が嵩むことから、恩給制度はあっても受給できない状態だったのです。恩給年限に達すると今で言う肩叩きがなされ、他に職を求めて退職するか、勤続を希望しても、一旦は退職して雇として再雇用され給料も減額されたものです。
しかし昭和十三年に、現在のような全道市町村一円となった共済制度が組織されてからは、恩給制度も確立したので、このような問題も解消しました。
就職当時は税務係で、三年後の大正十五年に勧業係となりました。その頃の業務の中で思い出になった事を書いてみたいと思います。
◇税金の督励と出張徴収
税金の納期は第一期が六月、第二期が十月で役場から納付書を発行後、出張徴収といって、各小学校に吏員が出向き徴収したものです。
納税は国民の三大義務の一つですが、どこの部落にも、納期限内に納めない人が一部いるので、秋の収穫が終った頃、未納家庭を徴収して歩いたものでした。中には「マサカリ」を持って追い返すという様な家庭もあったと聞いています。
十二月の初旬と記憶していますが、私は奉職して初めて江花部落を督励に廻った日の事です。
雪の日で道も悪く、霜取牧場の奥の蝶野さんに着いた頃は、もう日も暮れかけていました。そこで、「貯金しようと思って残しておいたのを持って行ってくれないか」と言われ、四円余りを託されましたが、それはずしりと重い二銭銅貨二〇〇杖余りでした。
近道を聞き、沢を越え道なき道を進み、柿崎徳蔵さん宅に着いた時は、もう日もとっぶり暮れていました。柿崎さんは「こんなに暗いのに行けますか。夕食前でしょう。食べて行きなさい」と言って出してくれました。
ご馳走になってから同家を出ましたが、初めての所で、その上雪で道も判からず、それでもどうにか次の谷岡熊吉さん宅に着きました。そこで「提灯を持って行きなさい」と言われ、今度は薄明かりに照らされながら歩く事ができました。少し吹雪いて来たようでした。
そうして松井軍兵衛さんに寄ると「こんなに暗くなって、道も知らんのでは行けるものでない。天気も荒れて来たし、泊まって行きなさい」と勧められるままに泊めてもらいました。
部落の人々の心遣いが嬉しかったが、それにも増して、銅貨の重さを懐しく思い出します。
◇出張先での馬耕とプラウの審査
明治四年アメリカのケプロンが、北海道開拓使の顧問として来道した際、農機具一揃を持参したのが日本でプラウを使った始まりでした。
明治十四年に北海道でプラウの製作が開始され、以後道内各地で、業者が農機具の工夫向上を計った結果、全く日本向きのプラウが考案されました。
昭和六年頃と思いますが、道庁から、ビート耕作奨励の為、深耕プラウ購入者に補助金が出される事になりました。補助の対象となったプラウは道内では帯広の山田農機製作所、伊達の小西農機製作所のものでした。
それで上富良野からも、補助金の対象となるプラウを出したいと思い、村内の三業者に話したところ、菅野豊治さんから申し出がありました。早速審査申請することにし、菅野さんの製作したプラウを、審査会場である農業試験場に早めに送っておきました。
さて審査当日、勧業係の為に吉田村長の命を受けた私と菅野さんの二人が、試験場に出向いたところ、保管が悪かったせいで、プラウは赤錆になっておりました。これなら土も反転しない、廃土板を磨くのに畑を起こそうと言うことで、近くの小谷さんと言う方から、馬と畑を借りて耕すことになりました。
裸足になりズボンを膝までまくり、私が駁者綱を持ち菅野さんがプラウを持って、二反程耕しました。撥土板の錆も落ち、土の反転も良くなった処で、審査を受け合格したのです。
菅野さんも大変喜ばれ、その後試験圃場を持ち、常に農家の立場になって「土づくり」をモットーに農機具製作に励んだ方です。昭和初期の凶作の続いた頃は「不景気を景気に耕すスガノプラウ」の標語を掲げ、農民の土気を鼓舞されました。
◇【プラウ】と菅野豊治さん
菅野豊治さんは、昭和十五年北海道から二〇〇戸余りの満蒙開拓民が移住した際、北海道農法の指導者として渡満。翌十六年日本政府及び満州国政府の斡旋、奨励に依り、吉林省吾林市に移転してスガノ農機製作所を開設されました。
村長吉田貞次郎さんが国会議員(昭和十七年四月三十日衆議院議員当選)としてここを視察された際のお話から、我が郷土出身の菅野さんの活躍ぶりが窺われ、大変痛快に感じた次第です。
その後日本も戦に利あらず終戦となり帰国、上富良野村で再度開業されたわけです。氏の旺盛な研究心と熱意は、炭素焼の優秀なプラウを生み出し、小西農機の『赤プラウ』に対して、こちらは『白プラウ』として売り出し、馬耕用からトラクター用へと、赤プラウを凌ぐ勢いで全道に普及しました。
日本の大農機具メーカーとなった、故菅野豊冶氏との出会いの一端を述べ、北海道農業の伸展に寄与した功績を讃えたいと思います。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一