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開拓者 安井新右ヱ門の記録

安井 敏雄(六十才)

安井新右ヱ門は明治三年福井県丹生郡糸生村字小倉で、兵蔵(弘化二年生)の長男として生れる。生来几帳面な性格であったため自分の一生を記録し昭和二十五年八十一才で他界した。
筆者は新右ヱ門の直系の孫であり、次の文章は新右ヱ門の日記から、要点を抜粋したものである。

生家と渡道の動機

新右ヱ門の生家は、村でも有数の豪農であった。しかし父の兵蔵が醤油製造業に手を出して失敗し、田畑の大半が借金の返済のために、人手に渡ることになった。
一方祖父の新右ヱ門(文化十四年生)は、三国港で材木商を営んでいたが、これもうまくいかず廃業遂には全財産の殆んどを整理することになり、安井家は丸裸のドン底の暮しに陥ってしまった。
失意の父兵蔵は、無断で家出したり出稼ぎに行ったりしてあまり家に寄りつかず、母のフデは大勢の家族を養うのに大変苦労した。麻糸つむぎの内職で夜も寝ないこともあったが、一日の収入は僅かに二銭位にしかならなかった。
この時新右ヱ門は十二才、向学心に燃えながらも学校を中途で退学して、独学を心に決め家業の手伝いを始めた。五里もある三国の町へ米を背負って売りに行き、僅かの収入を得てその日暮らしの家計を助けたりした。
父は京阪方面、北海道へと転々したらしいが依然家には帰らず、新右ヱ門は十五才で絹の機織の見習奉公、引続いて農家の奉公に出されることになった。
口減らしと言って、食べさせてもらうだけで一銭ももらえない奉公で、年末に家に帰る時に下帯(六尺裡)を一本新調してくれるのみであった。それでも新右ヱ門はこの奉公先の長男から、夜に四書(大学・中庸・論語・孟子)を教えられ大変感激したものである。
明治十九年北海道の出稼ぎ先の父兵蔵から送金があり家族が大いに助って喜んでいると、まもなく父も帰って来た。故郷にいても財産もなく、将来に希望が持てないなら、いっそのこと北海道へ行って家の再興を図ろうではないかと、にわかに相談がまとまった。
北海道への移住
明治二十年四月九日、兵蔵夫婦と二男三女の家族七人は小倉を後にして、三国港から金比羅丸に乗船したが、八日間も待機させられ、十八日朝になってようやく小樽港目指して出港した。
その頃の北海道は、未開・酷寒の地で罪人か内地で食いつめた人間しか行かない土地と考えられていたので、一家は希望を抱きながらも、いざ出発となると祖先から何百年来住みついた故郷を離れるという複雑な気持は想像を越えるものがあったようである。
出港して五日目、海が荒れて大時化となり小さな和船は大きな波に木の葉のように翻弄されて、乗客は船内を転がりまわり、船酔いに苦しみ生きた心地がしなかった。
そのあと何日も航海を続け、十一日日の朝初めて陸地が見えたので積丹岳かと喜んだが、意外にも利尻富士であった。船中では病人が続出し、全員の衰弱が激しいため小樽へ引返すのを断念して、鬼脇村に二十八日午後上陸することにした。
大勢の者が泊る家もなく、坂本さんという桶屋の作業小屋を借りて一泊し、翌日親切な越後の人の世話で各人各所に奉公先を探すことになった。
新右ヱ門は取り敢えず葛谷方で三ヶ月奉公し、満期後は出面や土方の請負仕事などをした。妹も子守奉公に出たが、父母は土地を借りて掘立小屋を建て野菜を作付した。父は八月から稚内の漁場へ出稼ぎに行ったり、秋になって野菜が高く売れたりしたので、飯米十二俵を買うことが出来た。
翌年は官林の払下げを受け、若者を雇い父と三人で薪を切り出すことにした。ズブの素人で苦心しながら八十敷(一敷百本)をつくり、手橇で運び出して坂本某に売ることにした。ところが現金がないということで止むなく証書にしたが、貸し倒れに終ってしまった。
今度は六里もある沓形村へ鰊場の仕事に行ったが、食べるのが精一杯で、秋には鴛泊まで四里の道を酒樽を背負う商店の仕入れや、石屋の雑仕事にも従事した。
明治二十二年鰊場で働いて百八十円ばかりの金が残ったが、漁業は遭難死の恐れがあるから思い切って足を洗い、最初の目的地へ行って農業をやろうではないかという母の意見に従い、利尻を離れる決意をした。
北海道本島へ入植
明治二十二年八月、かねて出願してあった上手稲村字西野に移住した。早速小屋を建てて住まい、炭焼きから習って、炭がまを築いて炭を焼いた。男達は伐採し、女子供はその木を運ぶのが役目の分業体制であった。
翌年三月再び利尻に出向き、かつての薪代金の回収と出稼ぎをして八月に帰った。この年初めて馬を購入、価格は十五円であった。仔馬も産れ、親馬の背に炭をつけて札幌まで売りに出掛けた。この年新右ヱ門は二十一才で、母の勧めに従いカミと結婚して一家の責任者となる。
明治二十四年、福井に残って北海道へ一度も来なかった祖母が死去したので、祖父も渡道を決意し、遠縁の樋村与作を養子にして新右ヱ門を襲名させ、家屋敷と残り少ない田畑山林を与え、先祖の墓や菩提寺の供養を依頼した。
前年から生産した炭を札幌の大熊某、小樽の泉某に出荷したが、両名とも代金を踏み倒して行方不明となってしまった。
明治二十五年も開墾の傍ら炭焼きをした。官林の払下げを願った山に、炭がまを築こうと弟と二人で出かけたが、昼飯の時大熊におそわれ危機一髪で逃げて危うく難を免れた。
翌年、二間半に四間の二階建土台付住宅を新築しそれに二間の下屋を下して養蚕をやったがこれは失敗に終った。
明治二十七年、当別村で広い土地の払下げを出願したが不許可になったので、知人の未墾地二戸分(五町)を譲り受けて、小屋を建て新右ヱ門と妻と妹達が引越して開墾に従事し、父や弟が西野の開墾を担当した。そして発寒川から用水路を掘り、水田経営の道を開いた。
明治二十八年二月、日清戦争のため軍馬徴発があり、強制買上げされたが代金は十九円という安値で、代馬を購入するには四十円も足し前しなければならなかった。
当別では他人の協力を得て田三反、畑二町を開墾した。小豆を二反で十五俵も穫ったが、早霜で黒くなり、売り物にならず翌年までかかって自家用に供したが、毎日の小豆飯にはみんなうんざりした。
翌二十九年、西野の土地建物を二百二十円で売り、家族全部が当別に住むことにした。この年水害が三回もあり収穫物僅少のため、家族全員で炭焼きをして生活を支えた。
明治三十年、土地一戸分、宅地二戸分出願して許可になったので、小屋を建て開墾と田畑の耕作をしたが、米は反当一俵余りしか獲れず、この年も炭焼きをした。
次の年は草出来がよく、豊作を期待したのであったが、またまた石狩川の氾濫で収穫は殆んど皆無となり、三年続きの凶作で困窮のあまり、またも炭焼きで糊口を凌ぐことになった。道庁より水害被災者に食糧、種子、農機具代として八十円余りを無利子年賦払で貸付されたので、どんなに助かったかわからない。
(つづく)
「注」 たび重なる石狩川の水害にこりた新右ヱ門一家は、大きな川のない奥地上川を指向することになる。富良野原野への入植の状況は、次号を御期待下さい。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一