郷土をさぐる会トップページ     第02号目次

クマに襲われる

三好 清次郎(六十五才 当時四十三才)

私が熊に襲われたのは、昭和三十四年十一月四日夜、映画見物の帰りでした。場所は、東中市街地はずれで、公民館から二百米程の東八線十九号道路です。開拓当時ならともかく、田も畑もすっかり整備され、人家も点在した所で、日頃夜間でも、子供さえ心配なく往来していた道でした。
当時部落に慰安施設がないので、東中地域では農協の事業の一つとして、農協青年部と上川生産連との契約により、毎月一回東中公民館で映画を上映していました。
当日の映画『南国土佐』は、前日の定期映画会に引き続いて特別に催されたもので、それは当時公民館協力委員長であった上田美一さんが地域の人々の為に、東中農協前にバス停留場待合室建設資金造成を目的として行ったものでした。幸い当日は満員の観客で、上田さんも大変喜ばれたと聞いて居ります。
私もその日、ビート搬出作業にも暇が出来たので出かけ、映画が終わったのは午後十時三十分頃でした。
私は自転車で来ていたので、近くの神谷自転車店でこわれていたライトを直して貰い、後に久保喜八郎さんの息子さんの健蔵君(当時小学三年生)を乗せて帰路につきました。
その頃既に、私と同じ方向に帰りかけた何人かの人が熊に襲われ、大騒ぎとなり、皆近くの家に逃げ込んで一時通行止めの状態になっていたのですが、私は何も知らずベタルを踏んでいました。
東八線道路を公民館の横まで来た時、近くの小間物店の見附さんのお婆さんが、「今その先に熊が出たとみんなが騒いでいる」と教えてくれたのですが私は、こんな市街地の近くに熊など出る筈がないと思って軽く聞き流しました。
公民館の灯りもまだ近くに見える松田与吉さんと青地春夫さんの家の中間付近に来た時、突然後でうなり声がし、驚いて振り向くと、真っ黒い物が飛びかかって来ました。
〃熊だ〃と気づいて、近くの家に逃げ込もうと思った途端、自転車もろとも叩き飛ばされて、私は道路脇の排水路の中にすっぱりと入り仰向けに寝た格好になったその私を、熊が上から四肢で押さえつけ、かじり始めたわけです。
アノラック、セーター、コットン、メリヤスシャツ、胴巻等、寒い夜だったので厚着をしていましたが、見る見るうちにズタズタに引き裂かれてしまいました。
かみついて来る熊は、月夜なのではっきり見えました。丁度猫が怒った時に毛を立てるように、熊の毛も立ち顔が倍くらいになり、非常に恐しい顔になっていました。
頭をかじられる音が不気味に聞こえて、俺もここで死ぬのかと思いながらも、夢中で熊の耳を引張ったり、あごを押したりしましたが、すぐに振り払われてしまいました。
今此処で死んでたまるものかと思い、後に残る家内や子供のことが頭に浮かんで、日頃不信心な私も思わず念仏を三回唱えました。
随分長い時間に思いましたが、五分もやられていたのでしょうか、その時サイレンが鳴り響き、間もなく消防車がライトをつけて近づいて来ました。そのライトを見た途端、熊は慌てて私から離れ、逃げ出しました。
その時の嬉しかったこと、ああこれで俺も助かったのだと起き上がり、排水路から出ようとしましたが、体が弱り力が抜けたようになって出られず、浅い用水の中をふらふら歩いていると、北豊次郎さんが来て引き上げてくれました。
後の荷台に乗せて来た健蔵君の事が気になりどうしているかと尋ねましたら、熊が私に飛びかかった時、うまく熊の下からくぐり抜けて逃げ、松田さん宅に皆と一緒に避難していると聞いてホッとしました。
後で聞いたのですが、健蔵君は襲われた時に服が破られ爪の跡が残っているが、軽い怪我で済んだそうで安心しました。
北さんに助けて貰って道路へ出た処へ、消防車が来て乗せてくれましたが、丁度そこへ病院の車も来たのですぐに乗り替えました。
車の中では、団員の蓮井清さんが付添ってくれ、「おいお前寝るなよ、眠ったらそのまま死ぬぞ」と言って力づけられたが、「いや俺はかんが立っているから眠るどころでない」と答えたりするうちに病院に着きました。その車のスピードの早かった事、一二〇〜一三〇粁出したと聞きました。
病院では、知らせを聞いて既に準備がしてあり、すぐ手術に取りかかりました。
外科医の安井先生が「麻酔をかけると治るのが遅いので、かけないで縫うから我慢せよ」と云われるので、「熊にかじられる思いをしたら何も痛くありません」と言ってそのまま手術を受けました。全身にかじられた傷を受けていたので、五十余針縫いました。
私の他にも四、五人の怪我人があり、安井先生は一晩一睡もせず看護して下さいましたので一番重傷の私も、お陰で命拾いをしました。
私は其の後四十五日聞入院しましたが、退院してからの農作業は難儀しました。プラウはうまく握られず、田圃の代操作業も手が痛くて思うようにいかず、苦労の連続でした。
又それから五、六年は夜が恐しくて、自転車もやめモーターバイクに乗り始めました。
今も当時を思い出しますと、さまざまな思いが胸をよぎります。
先ず熊が出ているという見附さんのお婆さんの話を素直に聞かなかった事、小学校の修身の教科書で、熊に逢った時死んだ真似をすると助かると知ったので、息を止めて死んだ振りをしたが効果がなかった事、東中消防団の方々が、サイレンを鳴らし消防車で助けに来てくれた事、そして病院の安井先生始め各先生方、看護婦さん達に献身的な看護をして頂いた事等々、反省と共に感謝の念でいっぱいです。
私等を襲った熊は、其の翌日猟友会のハンター九人の方々で仕留めて仇をとってくれました。
ハンターの一人高松高雄さんの話によりますと、人を襲った熊は危険なので放置できないということで、知らせを受けたハンター一同が集まったのは其の晩のうちでした。そして翌五日夜明けと共に、地形に明るい高松さんを案内役に、消防団員全員も出動して熊狩りを開始したそうです。
初め熊の足跡がなかなか発見できなかったが一同が周辺地帯を綿密に調べた処、当日は霜の降りた寒い晩で、動物も賢いもので足跡を残さないよう川の中を移動したことが判り、川から畑に出た地点をようやく発見。午前十一時三十分頃江森孝一さんの真の雑木林の中に潜んで居る事を突き止め、遠巻きに追い出しを図り、日新の小泉宇一さんが村田銃で見事射止めたのです。
熊は雌の四才位で、体重は二百s程度であったと云われています。親熊と一緒に居たと思われる仔熊は、遂に発見できませんでした。
なお本町では熊撃ちの名人として知られた小泉さんは、この熊で四十九頭目との事でした。小泉さんがこの熊を射止めた模様は、当時の北海道新聞にも掲載されましたが、最初約七十米程離れた林の中に熊の姿が見えたので、一発撃ったのが左腹に当り、二発目は約三十五米程の距離から左肩に撃ち込み、三発目は眉間に命中したそうです。
また小泉さんの想像では、この熊は十勝岳から芦別岳に抜けようとして東中市街を通ったのではないかとの事でした。
小泉さんの話の中で、「秋の熊はこれから冬眠に入るので爪や手の乎を大切にする習性があるから、口でかじったのでしょう。夏季だったら一撃を受けて、ひとたまりもなく終りだったでしょう」と云われゾーッとしましたし、熊にかまれた傷は化膿しないものだと知りました。
私の外に熊に襲われ傷を受けたのは、
    太田 洋さん (当時十六才)   大腿部脛創
    久保健蔵さん (当時小学三年生) 軽い脛創
    江森 鴻さん (当時六十七才)  大腿部骨折
    江森百合子さん(当時十六才)   肋骨骨折
以上四人の方でした。
私の次に大怪我をされた今は亡き江森鴻きんの長男の江森孝一さんは、事件のあった時の様子を次のように話しています。
『其の晩はお客さんがあったので、自分達夫婦は家に残り、私の母親と娘は映画を見に出かけました。午後十時半頃サイレンが鳴ったので、何処か火事かなあと思っていましたら、有線放送で熊が出ていると二回も三回も放送され其の後、十勝ハイヤーの運転手さんから、太田洋さんが襲われ、家の母と娘が襲われ、次に三好さんが襲われたらしいと知らされ、驚いてその車で直ぐに病院に駈け込みました。病院では、母は骨盤をかまれ、娘は脊髄をかまれたということで手術中でした。
その後母の話に依ると、『映画からの帰り道、何か後ろから走って来るので、牛でも逃げて来たのかと思って急いで逃げたが追いつかれ、先に娘が襲われ倒れたので、夢中で倒れた娘の上に自分の体で庇った処、自分も襲われて何処をどうされたか判らなかった。助けられて病院に運ばれ、二人共大怪我をしているのに始めて気がつき、恐しさと傷の痛みがこみ上げて来た』との事でした。
更に私等を助けてくれた東中消防団員の一人、森口勝さんからも其の時の様子を聞かせてもらいました。
『私は当日、農協青年部で毎年行っていた農産物品評会に出席した後、部員役員等で反省を兼ねた慰労会に出ました。宴会も終り夜道を一人で我が家に向かってぶらぶら歩いていると、突然サイレンが鳴り出したので、職責を感じ夢中で消防番屋に駈けつけました。ところが消防車は小学校の前を十九号の方へ曲った所まで来ていて、私は訳のわからないまま追いかけました。
車はすぐ青地春夫さん宅の前で止まり、聞いてみると、映画帰りの人が熊に襲われたので、此の辺に倒れている人がいないか捜しているということなので、私も協力して近くを捜しますとすぐ見つかりました。十一部落の三好清次郎さんである事が分かりました。
 その時三好さんは、額から血が顔に流れかかり、丁度テレビ映画でも見る様に、実に蒼絶な顔をして、「俺はもう駄目だが、一緒に居た子供はどうしただろう」としきりに口走り、心配していました。
私達団員一同は「何を気の弱い事を言って、こんな事で負けてどうする」と云って力づけ消防車に乗せたが、丁度病院の車が来たので、団員の蓮井君が同乗して町立病院に運んで行ったわけです。
思えばあの時、危機一発で三好さんを助ける事が出来たのです。というのは、消防団員であった上田義詔君が現場近くの自宅に帰る途中、「熊が出た」と云う声を聞いて、咄嗟の判断で消防番屋に駈け戻り、当直の石田清二君に頼んで、サイレンを鳴らし消防車を出し、ライトを照らしつつ現場へ向かったので、熊もびっくりして逃げだしたのですから。』当時駈けつけて救助活動をしてくれた数名の団員は、今でも時折集まって、翌日熊狩りをして見事射止めた事や、消防本部の二階でみんなで熊汁を食べた事など思い出して、話に花を咲かせているということです。
編集委員余録
当時東申郵便局長であった高橋寅吉さんは後日次の様に話されています。

『突然夜半にサイレンが鳴ったので、表に飛び出してみた処、自宅から八百米の東中市街地の方から、何か騒しい人声が聞こえてきました。
そのうちに消防車がサイレンを鳴らしながら出動して行くのが見えたので、火の手も見えないし何事だろうと思っていた処、有線放送があり市街地近くに熊が出て大騒ぎしている事、怪我人が数人出て病院へ運ばれた事等聞いて驚いてしまいました。幸いに怪我人は命に別状ないと聞いて、やれやれとホッとした次第。
翌日郵便局に出勤して、正午近く昨夜の熊を見事射止めたと知らせが入り、早速公民館前の広場に運ばれて来た熊を見に行きました。
熊は中位で、雌の熊でしたが、見物の人やNHK写真班の人が走り回って大勢ごった返していました。多くの人々の話を総合しますと、此の熊は、東の山から西の山へ移動しようとした親子熊で丁度市街近くに来た時、たまたま公民館の映画が終って、近所の人や山方面の人が三三五五帰路につき、映画の事など賑やかに話し合う声が聞こえて来たので、熊は驚いて道路横のトーキビ畑の中で潜んでいました。
そのうち仔熊が、人間知らずで、ノコノコと道路へ這い出したのを、先頭の青年達が「近所の豚が逃げ出したのだろう」と思って追い返したところ、親熊が我子の一大事とばかり飛び出して来たので、一同ピックリ仰天、「熊だ」と叫んで一目散に逃げました。
親熊は仔熊をかばって深追いせず、すぐ仔熊の方へ戻ったが、次から次と人が来るので、それを次々襲ったわけです。
江森さん達が一撃されかまれたりしたが、すぐ親熊が引返したので、命拾いが出来たものと思います。
又三好さんは一足遅れて、一時熊騒ぎで近所の家へ殆どの人が避難して人波が切れた処へ、何も知らず悠悠とさしかかったので、親熊は猛然と三好さんを襲ったのです。三好さんは一撃で飛ばされ、狭い排水路に仰向きに落ち、熊もその中に四肢を突込んで三好さんを押えつけたのですが、不幸中の幸いと申しますか、中が狭いため熊得意の張り手も横なぐりも出来ないので、かみついて来たものと思います。
これが女子や私等ならひとたまりもありませんが、三好さんは東中一と言われる程、頑丈な体格の持ち主であり、働き盛りの自慢の力持ちでもあったので、恐しい熊にかじられながらも腕で熊の耳や首を引張って、消防車の来る迄頑張り命拾いが出来たものです。その勇気と力に頭の下がる思いでした。
今日核家族とか親子の断絶とか、家庭問遽が取り沙汰されている折、江森さんのお母さんや三好さんは、死に直面しながらも我が家、我が孫を思い、自分の身を犠牲にしても守るという親心と、人の子も我が子同様の愛情を発露された行為は、私達も勿論、殊に若い方々に、十分かみしめて頂きたいものと思います。』

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一