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十勝岳爆発に遭遇して

菅原 a次郎(七十七才)

私の父菅原寅右エ門は、明治三十七年秋、宮城県から佐川岩治さんを団長として渡道、当初上川郡当麻村伊香牛の細野農場に小作人として集団入植しましたが、ここは土地が悪く、谷地で造田もできない所でした。二作収穫したものの、作物の出来も悪く将来の見込みがないので、他に移転を決意しました。
明治四十二年、上富良野村に佐川団体の一員として転居入地致しました。その時父寅右エ門と一緒だったのは佐川岩治、佐川民五郎、狩野覚三郎さんぐらいであったと聞いています。
最初は沢の上の方の新井牧場事務所近くの空家を借りて入り、そこから佐川団体に通い続けました。その後、下の地域に入地する人がボツボツ居たようです。
入地当初は樹木も繁茂していて、沢には細い流れがありましたが、開拓が進むにつれてだんだんと水が枯渇してきて、深い沢迄水を汲みに行くのが日課になりました。水を樽で背負ったり、石油缶につるをつけたりして、一キロ程も運ばなくてはなりませんでした。
馬も持たず、人力で一鍬一鍬耕し苦労して拓いた土地も、水が無いという理由で移転をやむなくされました。入地数年にして、今度は新井牧場の牛舎近くの沢に家を建て、そこから畑に通ったわけです。
大正十三年頃には西ニ線北三十一考に土地を求めこの時も通って耕作していました。
十勝岳の大爆発
大正十五年五月二十四日は雨天でしたが、私は弟と二人で馬二頭を連れて、西二線の土地で仕事をしていました。
雨も小降りになって一服していると、午後四時頃突然ゴウゴウという大きな音響と共に、山の方からゴンゴンとうなって地響きがしてきました。何だろうと思って見ると、日新の沢あたりから湯気がたって、それが見る間に山のように押し寄せ、水が眼の前の台地にぐんぐんと上ってくるようでした。
仕事も手につかず、少しづつ高い方に登りながら見ていると樹木が立ったまま流れ、大きな石がゴロゴロ転がるように流れ、平地はあっという間に一面の泥の海となりました。篠原さんの家もメチャメチャに潰されました。
家がどうなったかと心配で山伝いに行こうとしましたが、泥水で行けないので引返し、その晩は作小屋で不安な一夜を明かしました。
翌朝、弟と北村留五郎さんとの三人で沢を越して見に行きました。手をつないで川を渡り、山を登って喜多さんの方を回り、昼頃自分の家のあった所に着きましたが、流されて何もありませんでした。
家族は佐川団体に避難していると聞き、急いで行ってみると、沢に居た家族の中で母だけが逃げ遅れて流されたと言うことでした。沢の奥の方に住んでいた佐川政治さんの家族九人は全員が流されて一家全滅、又藤山さんの家族は十一人のうち九人が惨死されたと聞いて、まるで悪夢を見ているようで、只呆然自失するばかりでした。
私の当面の住居は、大正十四年迄住んでいた家があったのでそこに移り、その日から死体の捜索等に出動しました。
日新小学校のある沢の下流に十六戸ありましたが、及川万次郎さん、菊池万兵衛さんの本家、佐々木忠次郎さん等の家が流されました。学佼の児童も校舎と共に流され、四十六名中十二名が死亡されました。
菊池先生が所用で旭川に出かけた留守中に起った災害で、本家一家族及び妻子全員を亡くしましたが、自分の預っていた児童のことばかり気にしました。我家の大惨事にもかかわらず、徒らに嘆いている場合でないと言って、十二名の死亡者の遺族を慰問して歩きました。先生の愛情あふれる姿に、人々が涙を流して感激したことを記憶しています。
日新校舎の建設
資材は部落の人の奉仕で山を越えて運ばれ、バラック建の校舎が出来上がりました。六月十六日に開校しましたが、児童数は僅か十六名となり、教壇に立たれた菊池先生は涙が止まらなかったと語っておられました。
なお私の家でも、義捐金や救援物資が数回にわたって支給され、大変有難かったのを覚えています。
私は昭和三年十二月に結婚し、翌年春、西二線北三十一号に分家し営農を続けました。昭和三十一年には市街地に転居して息子達と同居し、現在楽しい余生を送っています。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一