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日新小回顧録…その3 日新小学校と共に歩んで

片倉 喜一郎(七十五才)


私の祖父片倉孫三郎は宮城県出身で、渡道年は定かでないが、寿都郡黒松内村に移住、開拓に従事していました。父伊右エ門はそこで分家し、明治四十一年上富良野に転居し、現在に至っています。
日新小学校開校
日新小学校は、明治四十四年九月十二日上富良野第四教育所として認可になり、十一月十一日校舎が落成開校、十三日から授業が開始されました。
最初に赴任されたのは久世第二先生で、次に大正三年四月十七日に高木千景先生が就任されました。私の入学した頃は、高木先生が教えておられました。
その頃の校舎は、板張りで壁も塗っていなく板が反って隙間風が入るので、厳寒の時等は、交代でストーブにあたり、身体を暖めたものです。
私の父は木挽をしていて、この校舎を見るに見かねて、板を一枚、二枚と挽き、二重張の校舎にしたと、父から聞かされています。
校長は北常蔵先生で、上富良野尋常小学校の校長も兼務されていました。日新小学校は田舎にあるので、「山の学佼」とも呼ばれていました。
学校といっても、教室が一室だけで、屋内の運動場もありませんでした。それで休み時間になると、上級生は、教室の隅にある薪ストープを占領し、私等低学年の児童は、自席で休んでいたような状態でした。
児童の服装は着物で、履物も冬はつまご、夏は下駄や草履等でした。卒業式等の行事にも、羽織、袴を着た児童は、殆どいませんでしたが、私も卒業まで、一度も身につけたことがありませんでした。
食べ物も粗末で、弁当も、麦の中にイナキビが入っているもので、米の混っている児童は、何人かしかいなかったのです。
高木先生は、非常に厳しい方で、分をわきまえた行いをするよう教えられました。私もこれを私なりに理解し、その言葉を守ってきたつもりです。
また高木先生は、二メートル位の竹竿を常に持っていました。授業申子供が騒ぐと、黒板消や白墨が飛んで来ました。大正九年六月頃、転任されましたが、厳しい中にも愛情溢れた方で、私は大人になってからも先生の教えを思い出し、反省させられることが時々あります。
高木先生が転任された後、宮田先生が赴任されました。その後、大正十三年に菊池政美先生が着任され、大変お世話になりました。
私が一年生の時、菊池先生は六年生で、一緒に通学した間柄でしたが、下級生の面倒をよく見られ、清水沢から通っていたので、途中でたびたび弁当や本を背負って貰ったことがありました。また、「あいうえお」や数字等を、やさしく教えて下さったことは、今でも忘れることができません。
日新小学校の敷地は、新井鬼司さんが寄付され、木材も新井さんの山から切りました。土台、柱等は私の父が仲間と共に木挽をしたと聞いています。
村で日新小学校ほど学校建設に部落民こぞって苦労した学校はないと思います。
十勝岳爆発
思い出すのは、大正十五年五月二十四日午後四時頃です。爆発の泥流により、一瞬のうちに日新小学校は跡形もなく流されたのです。
私は、弟妹、叔父等親族五人を亡くしました。
菊池先生は、母親、妹、奥さん、長女の他、親戚の方が惨死されましたが、悲嘆に暮れる間もなく、児童の安否を尋ね、毎日死体捜索に当っておられました。
そして先生は、この様な状態の申でも、校舎建設について大変心配されていましたが、部落民の奉仕により、校舎を鰍の沢の入口に建てることになったのです。
部落民総出で、材料は日の出から山越に人力で運搬し、流木も利用し、高原権平さんが棟梁となって、バラック建の仮校舎が完成しました。
六月十六日開校の運びとなり、残された児革が通学を始めたわけですが、菊池先生のご心境をお察しするのに余りあるものがございました。先生の教育に対する熱意に、只々頭の下がる思いでした。
この、仮校舎も水の便が悪く、川向いの熊谷さんの土地の湧水を、先生は児童と共にバケツで運ぶなど、その苦労は大変なものでした。
音楽を教えるにもオルガンがなく、先生は、バイオリンを自費で買われ、国歌君が代、卒業式の式歌等、教えられたものです。
校舎移転
昭和二年十二月二日、校舎は現在地に移転しました。職員室の工期が遅れて、壁が乾かず、私は毎日ストープを焚いて乾かしたものです。
その頃は、村の予算が少なかったからと思いますが、草分の創成小学校で使わないであったオルガンを譲って貰うことになりました。そのオルガンを、及川徳治さんが背負って来たことは、今も語りぐさになっています。その時私は十九才でしたが、いかに山の学校だからと言って、他の学校のオルガンが回されたことに、少々義憤を感じたものです。
その後、村ではオルガンを買ってくれましたが、児童の為にピアノが欲しいという声が高まりました。いろいろ討議の末、当時三十万円のピアノを、町の補助を受け、部落の皆さんの浄財を出し合って購入、卒業式に間に合わせたこともありました。
校舎は私の敷地の中に建っていますので、何かにつけて、学校とつながりを持つようになりました。私なりに学校の教育に関心を持ち、ある時は小使いの様に、ある時は相談役として、五十余年の間、歴代の校長先生や各先生方と、公私に亘る交際を続けてきました。
殊に、私が今の教育に不安を抱いていることは、祝日に日の丸の旗を掲げてはいけない、卒業式等に君が代を歌ってはいけない、ストをし授業の放棄がある等々。この様なことを見るにつけ、聞くにつけ国の教育の基本は何か、子供の幸せは何かと、深く考えさせられます。
日新ダム
昭和三十年頃、日新ダムの話が持ち上がりました。日新部落の住民として、人口の減ることは忍びがたく、最初は反対をしていましたが、私も当時農業委員、土地改良区の一員として、国の施策に協力すべき立場であり、大局的見地からダム建設に協力しようと決心した次第です。
永年住み慣れた土地を手放す人々の気持になって、同意を求めて歩くことになりました。
そのうち開発局の各種調査も進み、富良野盆地の水稲の増産のため、ダム建設によって、毒水はそのまま放流し、真水を貯水し灌漑するという方針で進められました。
このダムは、当初清富ダムとして話が進められていましたが、せめて日新の地名だけは残したいという、地域の人々の切なる願いが湧き起って来たので、町長を通じ、開発局に申し出た結果、『日新ダム』と改めて命名されたわけです。
日新小学校の閉校
ここ日新部落も、年々過疎化が進み、入学する児童も次第に減少して来ました。
二学級維持のため、教育委員会にお頗いし、先生の異動の際、小学生の子供さんが多くおられる先生に赴任して頂いたこともあったと聞いております。
昭和四十四年頃には、児童数も十一、二名となり、野球も出来ない状態になりました。
そこで、時の校長田原盛一先生は、自身も有段者であることから、学校内で剣道の指導をするべく働きかけ、早速教育委員会で、防具を買ってくれることに決まりました。当時の教育長加藤清氏も、市街の子供達に剣道を指導されていたと聞いていました。
ということで、日新小に於いて剣道の指導が始まったわけで、卒業式終了後の剣道の試合を見た時など、私は大いに喜んだものです。剣道は〃礼に始まり、礼に終る〃と言われ、精神面を強調したスポーツとして高く評価されていました。
しかし、その後過疎化が更に進み、入学児童も一人という事態に追い込まれ、残念ながら、閉校に踏み切ったのです。
部落民も、学校を失うことは、心の寄り処を失うことですが、児童の幸せのために涙をのんで同意し私も、閉校式に参列した同級生に会う度に、胸がしめつけられる思いでした。
閉校時の谷口校長は、「日新小には大きな学校にはない良さがあった。素晴しい部落だったし、在任期間よい勉強になった」と語っておられました。
私としても、五十有余年家庭と同様の学校でした。心に残るのは、毎年行われた部落大運動会です。これも、児童数が減って運動会も寂しくなったので、部落運動会として一家総出で一日を楽しく過ごそうと、始められたのでした。
現在子供達は、通学パスで西小に通っていますが、車を降りる時運転手さんに「有難うございました」と挨拶する姿を、私はほほえましく思っています。小さな学校で学んだ子供も、このように行儀よく、しっかりと成長しているのかと誇りを感じています。
私共の時代と違い、教科書の内容も変っていますが、昔の修身は、子供の心を育てるのに大いに役立っていたと思います。最近父兄の中で先生が悪いという人がいますが、先生を悪く言って、子供が幸せになれるでしょうか。子供は親の姿、先生の姿を見て育って行くのです。
思うに、修身の精神を生かして、教育に当ってほしいものです。
私は、小学校時代の恩師高木先生を、今日の片倉を育ててくれた恩人として尊敬しています。以前岩見沢に、先生を訪問したことがありますが、大層喜んで下さり、お互にしばし泣いてしまいました。今はご他界された先生ですが、先生の深いご恩は、今でも私の中に生きています。
私もこれまで、種々の公職に就き、町の大きな問題に関係しましたが、真面目ばかりが男でなく、やるべき時は堂々と男を賭けてやるべきだと思って生きて来ました。役場・農協・土地改良区の一職員の皆さんにも、親しく手を貸して頂き感謝しています。
新井鬼司氏の開拓の記念碑
新井牧場の開設者新井鬼司さんの記念碑は、今私の土地の中に建っています。この碑は自然石で、表は「牧場開拓」、裏は「明治三十四年六月埼玉県西崎玉郡水無村新井鬼司」と刻まれています。
私は、毎年冬は神社まで除雪、夏は草を刈ってお守りをしています。私が此の世を去ってもこの碑を新井さんの形見として、息子に遺言をし、永遠に守り続けたいと思っています。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一