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日新小回顧録…その2 日新小学校教師の手記

菊池 政美(八十一才)

◎生い立ち
明治三十四年六月二十六日、父六右エ門の長男として、岩手県江刺郡玉里何に生まれる。
明治三十七年五月、私が小学校三年に進級したばかりの春、両親と共に、上富良野村新井牧場に単身移住していた及川万治郎さんを頼りに渡道することになった。

◎途中の思い出

国を出る時は、夜になってから母親の実家から何人かに見送られて水沢駅に着き、夜行列車で青森に向った。汽車に乗ったのは初めてである。青森港で連絡船に乗る時は小さな船で連絡船まで行き、連絡船の横腹にある階段の様な段に引き上げられて船の中に入った。
函館にはどのようにして上陸したのか覚えていない。函館からは又、列車に乗った。途中車窓からの眺めは、渺茫たる野原の様な感じだった。不思議でならないことは、木の株の高いことであった。これは雪の深い冬期間に伐採を行なうためで、大人だったら誰でも解ることであるが、子供の私には理解できなかった。
旭川で乗り換えて上富良野に着いたのは何時頃だったのか、これも覚えていない。駅でチッキを受け取り、父はそれを背負い、母は下の弟をおぶって、妹と私は線路伝いに歩いた。五月半ばだというのに雪がチラチラ降って大変寒かった。
目指す新井牧場に着くと、裏門の所で及川万冶郎さんに逢い、「この奥に菊地長右エ門氏がいるからそこへ行っておれ」と言われ、更にだいぶ歩くことになった。やっと長右エ門さんの家に着いて、長い旅行が終り、ホッと安心したような気持と、周囲が山に囲まれ、淋しい所だなあと感じた。
その後しばらくして、万冶郎さんや長右エ門さん等に手伝ってもらい、かげの沢に茅囲いの家を建ててそこへ移ったが、ここが我が家かと思ったら一層淋しくなった。冬は枯木を切ってきて囲炉裏で焚火を焚いて暖を取るのであるが、そのうちに慣れ、淋しさもなくなった。
それから私は事務所にいた北谷堂先生という先生に勉強を教えていただいた。私塾である。十人ぐらいもいただろうか。距離は家から三十町(編集注:1町は六十間、約百○九メートル)位離れていた。
◎入植早々大災難
家の横に、この沢一番と言われるイタヤの大木が立っていた。ある日急に雷雨となり、一陣の強風にバリバリッと音がしたかと思うと、その大木が家へ倒れてきた。父はそこにいた私を投げ出し、又家の中へ入ろうとした時、倒れてきた大木の幹に膜を打たれて転んだ。
それでもすぐ起き上がり、家の中に入り、囲炉裏のそばで弟を抱いて昼寝をしている母の所へ来てみたら、母は屋根のタルキの釘で脳天を打たれて血まみれになって気を失っていた。
隣の鈴木さんに早く行って、助けを求めるように言われて急いで走った。それから近所の方々が来てくれ、母は戸板に乗せられて町の病院へと運ばれた。
その年は街の中で他所の二階を借りて生活し、父は木工場で働いて冬を越した。私は近所の子供たちと友だちになり、道路でスケートすべりをしたり、近所の佐々木さんという桶屋さんに凧を作ってもらったりして楽しく遊んだ。
春になって又山に戻ったが、家が建つまで元の家から更に二、三町上手の方に住んでいた及川兵治さんの納屋の一隅を借りて暮した。
しばらくして新しく家を建てたが、出来た家は前とは全然違う長柾葺で板囲いのりっぱな家だった。その年の秋学校が開かれたので、それからは毎日通学することができた。
明治四十四年、農場主が学校を建てて村に寄付して、正式に勉強がはじめられた。最初の先生は久世第二という方であった。生徒も少数であったが、やっと勉強が出来るようになり、又、楽しく遊ぶことができたのでうれしかった。それからは清水沢から山越えの通学道路を休まず通った。
その次の先生は、高木千景という青森から来られた先生であった。卒業するまでこの先生の教えを受けた。習字の好きな先生で、私も好きだったので、いつも成績は甲か甲の上をもらっていた。それを母の実家に送ったものだ。叔父の子供も習字が上手で互いに交換したりした。
学校の遊びは設備も無く、陣取り、鬼ごっこ、相撲、コマ回しなど。それでも結構楽しかった。たまにはけんかもした。今生きておられる友は、菅原寿君の串のa次郎君、狩野円蔵君ぐらいであろう。昔がなつかしい。
◎新井事務所に奉公
小学校を卒業した年の秋から、新井事務所で奉公することになった。勉強も教えてもらえるということであった。毎日の仕事は土間や庭の掃除、水汲み、風呂を沸したり、食事の後始末、鍋釜を洗ったり食器を洗ったり、女中さんの仕事である。
冬の鍋釜洗いは少々宰かった。炭屋の沢から流れてくる小川で洗うのであるが、少しでも炭がついていたらやり直し、いつもピカピカ光っていなければならないのである。木灰をわら縄で編んだたわしに付けて磨くのであるが、手が荒れてひび赤切れができるのである。
そのほか馬二頭飼っていたのでその手入れ、馬小屋掃除など、大きな牛舎はあったが、牛は一頭もいなかった。
冬は馬橋で山に積んである薪運び。小切りして、ストーブに焚くように小割りして積んでおく。又、時には市街に馬橇で買物に、夏には乗馬で行く。小作人の家へ小作科の催促に行く時もある。又、旦那さんが旭川へ時々出かけるが、その送り迎えもした。
夕方の整理が終ったら、勝手へ上って若旦那さんの前に正座して勉強。本は大旦那が旭川から買ってきて下さったもの。大変有益な本であったが、十勝岳爆発災害のため流失してしまった。
たまには面白い小説みたいな本も頂いた。そのうちで、今でも面白かったなあと思い出になる本、それは世界的にも有名な『西遊記』。これは数冊続きの読み物であった。
この頃である。「政美、お前は東京へ行って勉強したいと思わんか。行きたかったら行かせてやるぞ」と言われた。でも、家では絶対私を出してくれるとは思われないので、「いいんです」と断った。特別残念だとも思わなかった。
私が事務所に奉公したことで、非常にためになったことがある。その一つは食事の時の作法、特に後始末の仕方である。食器を洗う時は、手でカリカリ音のするように。順序は大旦那の物、奥様の物、若旦那の物。整頓は、戸棚から暗い時でも手さぐりで確実に取ってこられるよう。調味料も皆この要領である。取り扱う時は音のしないようにする。
旦那さん方のお休み中にストープを焚きつける時などは、音をたてないように静かに気を配った。この経験が、私がその後教員になって生徒を指導する立場になった時に、大変役立った。
江花校にいた時の事であるが、このことを教育研究会の時研究発表したことがある。都会では、ある父兄が「学校の拭き掃除は小使いさんにさせるべきだ」と主張したことが、新聞だか雑誌だかに発表されたことがあった。私は「絶対、生徒にやらせるべきだ。これも大事な教育である」と強調した。
それから、しつけは厳しくあるべきである。しかし愛情を忘れた厳しさは、かえって反抗となる。
ある冬の朝、毎日続けて早起きして人通りの少いうちにと、山から馬橇で薪運びをしたり、駅からの馬橇の運搬が続いて、終った次の朝のこと、つい安心したせいか寝坊してしまった。きまり悪そうに勝手に来たら、奥様がもう起きられてストープも焚さ付けられている。奥様は私の顔を見てにこにこと、「政美、気にすることはないよ。毎朝の早起きで疲れたろうと思って、そっとしておいたんだからね」この時の感激はいまでも印象的である。これも、教師になった時にほんとうにためになったと思う。
近所の方からは、男の子なのに炊事、掃除などでひび、赤切れのできた手を見て、かわいそうに、と言われたものだが、何も幸いとは思わずに務めることができた。
◎私の父
父は、分家した時は、兄にあたる玉里村信行寺の門前で豆腐屋を開業していたと言う。私はそこで生まれたわけだが、明治三十七年八月の日露戦争で軽重輸卒として樺太に出征したので商売はできなくなり、私が一年生に入学する頃は、本家の正門の長屋の一室に生活していた。
本家は九州の菊池家一族の血統らしく、江刺氏という武士に仕えて、今の江刺市玉里に武家屋敷を構えていた。建物は古かったが、構えは残っていた。
私の知った頃は、長屋の門も開き放しになっていたし、長屋に住んでいたのも私達だけだった。時に本家に行って子供達と遊び、長持ちから太刀や槍など出して、ふざけて叱られたことを覚えている。
向って右は山林になっており、後は崖下を川が流れていた。川を隔てて向こう側に菊池仁蔵さん(良右エ門さんの兄)の家があった。遥か田んぼを隔てて信行寺を望む所であった。川の下流には水車があったが、それが誰の物か聞いたことはない。
新井牧場に来てから、菊池長右エ門さんの水車を建てたのは父であることは確かで、これが出来てからは近所の方々が利用していた。この他、街や十人牧場の方面にも建てていたようだ。内地にいた頃は木挽きをしていたとか、移住してからも山ご、木挽きなどをやっていて、町へ出て枕木などを挽いていたと言う。
◎教員を志した動機
特に動機と言うほどのことでもないが、第一に勉強が好きだったこと。新井事務所から帰った時点で、早稲田大学の中学講義録を取って仕事の合間に、又他人が昼寝をしている時間に勉強した。特に冬の農閑期の朝夕など、早起きして勉強した。初めのうちはやさしかったが、だんだん難しくなると伺べんも後戻りして復習を繰り返さねばならない。
毎月二冊づつ来るので忙しい。そこで、どうしても自分の部屋が必要なので、母屋の横に三〜四畳位の下屋を下ろし、万年床の横に火鉢を置き、丹前を被り、カンテラの光で頑張った。これが一番良かった。二ヶ年が終ると、すぐ通信試験を受けねばならぬ。難しい問題になると、昼仕事をしながら、問題が頭にこびりついて離れない有様であった。
かくして、期日までに何とかまとめて答案を送ってからは、ホッとしたと同時に「さて、どうなるか」と発表を待ちながらの不安が募った。
結果が来たのが何月何日かも定かでない。だが幸運にも大きな卒業証書に添えて、『成績優秀につき早稲田実業高校二学年に、無試験編入を許す」といぅ特待生の免状が添えられていた。この時の心境はとても口では言えない。
だが、とても東京に出してもらえる可能性はない。父は病身、母も子供を沢山抱えて、私が何よりの頼りである。話すだけ空しいことである。と誰よりも自分が知っている。涙も出さなかった。
そこで、この学問を有効にと言うか、何とか生かしたい。それには学校の先生になりたい。先生なら親から離れないでもできる、と思いついたのが第二の動機と言えるかもしれない。
その頃東中小学校に欠員がでたと言う話を耳にしたので、さっそく一人で同校の松本繁校長先生を訪ねたが、運悪く、「二、三日前に島津の某と言う青年を採用することにしたばかり」と言われて、がっかりして帰った。
ところが日新小学校の宮田先生が退職するということになり、伊藤常右エ門さんから「吉田村長さんがお前に役場へ来いと言っていたぞ」と言われ、何の事とも知らずに出かけた。
村長室に呼び入れられたら「君は先生になりたいそうだが、ちょっと試験をしてみたいから、そこでこの間超を解いてみなさい」と言われて、高等科程度の国語と数学の問題を出された。
そこで、わずかの時間だったと思うが解答して提出したら、ちょっと見られて「うん、よし。この程度の学力があれば小学校の先生は必ず勤まる。大いにこれからも研究してやってみなさい」とすぐに代用教員として採用して頂いた。私にとっては、感激の連続時代と言えよう。辞令は大正十一年十月五日付 日給三十銭≠ナあった。
就職間もなく結婚することになった。自分としては希望でなかったが、常右エ門さんに「学校の先生ともある者が、年とった一人の母親を安心させるということもしない様でどうなるのか」と説得されて承知した次第であった。
◎荒地一開墾と山火事
荒地の開墾は、私が学校を卒業するまでの新井事務所に奉公している間に、ほとんど両親がやった。
立木のある所なら、まず立木を倒して笹を刈り、まわりから火を放って焼くわけだが、その時注意することは、他に火をもらさないようにすることである。焼き払った後は、木は適当に玉切りにして積んで焼き、丸鍬でポツリポツリ一鍬づつ掘り起こし、それを小さく砕いて、最初は豌豆とか色豆、菜豆など、又本起ししないで、焼き払った地肌に菜種をバラ蒔きして、その上から軽く地面を削るようにする。これを削り蒔きと言った。私が奉公を終えて家へ帰った時はほとんどが再墾地だったし、又事務所から馬を借りて来ていたので大部分を馬耕でやった。
開墾の時火をもらすと、たちまち山火事になる。
私が青年団長をしていた当時、よく消火に召集されたものだ。大火になると、地形、立木の有無等を考慮して火防線を作り、迎え火を放って消すのであるが、なかなか難しいものである。
◎熊の話
清水沢からの通学道路は小沢の林の中にある小道を通った。雨の降ったような日には、熊の大きな足跡がベツタベツタとついているのを何べんも見ているが、不思議と一度も出会ったことはない。熊は決して自分の方から人間に向かっては来ないものだと思った。
私が教員になる前の年だったが、ある日の夕方、まだ日のあるうちに道端の平らな所で近所の人と手間がえで豆蒔をしていたら、向こうの日向のトーキビ畑に熊が出て、トーキビをロで喰わえては山際まで持って行き、そこにどっかと尻をついて食べている。そして又畑に降りて来て、口に喰わえて同じ様にして食べているではないか。
私はすぐ道を走って、高橋仁三郎さんの家へ行って知らせた。それっ、と鉄砲を持って下から見えがくれに近づいて行ったが、いち早く人の近づく気配を感じたのか、山にかけ上って行った。そこで明朝を待つことにした。
あいにく、次の日は雨天であったが長右エ門さん、仁三郎さんはカラカサをさして、夕方早く櫓に上って待っていた。と間もなく熊が出てきたようで、私が長着のまま門口を出た時、パンパンと銃の音がしたのでその方を見たら、熊は山の上の方へかけ登って行く。遠くから見ていたら、追いかけて山上へ行って、又二発音がして、間もなく「オーイ、オーイ」と呼ぶ声がした。そして下から何人か応援に登って行き、獲物をかついで下りて来た。畑から長右エ門さんの納屋の前まで土橇で運び、そこで皮をはぎ、その時初めて熊の肉というものを食べた。
◎十勝岳爆発による罹災
私は爆発の前日、尋常小学校正教員の検定受験の為、学校を臨時休校にして旭川に出立したので、罹災当日の実際の体験はしていない。災害の起こったことを知ったのは、二十五日の夕方であった。
検定の第一日を受けて宿に帰る途中、旭橋の上で私の前任の宮田先生に遇然に逢い「おい、大変なことになったな」と言われ、初めて山が爆発したことを知り、ただちに駅に駆け着けたが鉄道は不通。滝川を回っても富良野まで、と言われ、やむなく美瑛までの切符を買い求めていったん美瑛駅に下車、当時妹が奥山家に嫁いで、今の千代が岡の少し美瑛寄りの所の鉄道保線官舎に住んでいたので、そこまで歩いて逆戻りした。そこで大体の災害の模様が知らされた。
それによると、奥山は現地へ鉄道復旧の為出張して留守ではあったが、電話で私の家族は四人死亡、三人の男兄弟だけが元気で助かっていることがはっきりわかった。それから身軽な仕度に変えて、線路伝いにマラソンで夜中走り続けた。
そして、夜中に草分部落の出口にあった妻の実家に飛び込んだ。皆んな焚出しで疲れてゴロ寝していた。とりあえず近くの金子助役さんの家を訪れ、今帰って来た由を報告。助役さんは災害の日から役場に泊って帰らないと言うことであった。
朝になって現地を見た惨状は、真に筆舌に尽くせないものであった。線路は飴の様にまくり上げられ、大木は根こそぎに、そしてマッチの軸を折った如くにして泥海に積み上げられている。
何人かと草分の丘伝いに日新部落に向かい、鰍の沢を渡り、細野農場の山を越えて喜多さんの所へ出た時、数人の子供達が「先生が来た、先生が来た」と走り寄って来た時には、思わず胸が詰まってしまった。それまでは涙も出なかったのに。そこで又、大沢君等が不思議に助かった話、喜多さん宅の悲しい話などを聞かされた。
それから馬で数町奥の方の通学道路の上り口近くに住んでおられた、同郷の菊地万兵衛さん宅で弟三人がお世話になっていた。それから学校跡を皆んなで見に行ったが、全く校舎の跡形は無く、泥海と化していた。
それから数日は死体探し。「今日は何人。今日は誰々発見」と手帳に控えながら……。今でもその手帳は大切に保管している。
付  記
日新校は、明治四十四年九月十六日、上富良野第四教育所として認可される。
災害後の校舎は高原権乎さんが棟梁となり、部落総出で突貫作業により、六月十六日バラック建の仮校舎で授業を再開することになった。
四十六名の児童の中十一名が惨死し、その朝集った児童は十九名であり、涙が止まらなかったと言う。
大正十五年六月二十四日、十一名の児童の位碑を書き、聞信寺住職門上浄照師を招き、児童の霊を弔う。役場からは佐藤忠次郎書記が参列する。
少年期の体験が、人造りの為大きな力となり、教師として実践された事を如実に物語っており、自室には「教職天職」と揮毫した額が掲げられてある。
編集部 加藤  清

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一