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碑が語る上富の歴史

中村 有秀

上富良野町の神社・お寺・部落会館・公共建物等の周辺によく見かける石碑。
碑・・・それは私達の先人が上富良野の未開の大地に開拓の斧がおろされてから、今日までの厳しい北国での開拓の労苦と生活を語り、人間を語り、土地や農場そして自衛隊のさまざまの足跡や出来ごとを、風雪に耐えて無言に後世に伝えております。
私達の今日あるのも、祖先の幾星霜にも及ぶ厳しい北国での自然との戦いであり、喜怒哀楽の積みかさねの結果であります。
碑として後世に伝えられてきた数々の石碑の陰には幾多の先人がいたことを私達は思い起さなければならないと思います。
が碑の字形である。『砕』と呼ばれる最も古いものは、日の影の長短を見るために立てた時計の働きをする石であり、また宗廟の庭に動物を繋ぐための小立石であった。
後には、棺を墓穴に埋める時、棺を下げる綱を繋ぐために建てた石をいい、これに死者の功徳を記した。
これが、いわゆる『碑』の始めで、漢以後のことと言われている。
上富良野に現存する碑は、先人の功徳を中心とした人物碑、開拓や創立等の記念碑、十勝岳爆発等の碑・歌人俳人がその場を詠んだ歌碑句碑等で四十三基の多くを数えることができます。
上富良野も開基八〇年を過ぎて、先人のご労苦の足跡を偲ぶよい機会であろうかと考え、石碑調べを行う事にしました。
『郷土をさぐる』誌に当町の石碑の連載をし紹介しますので、町民の皆様が上富良野にこんな石碑があったのか、あそこの一隅にある石碑にはこのような由来があり、私達の現在とこんな関係があったのかと認識されることもあろうかと思います。
町民の皆様が散歩かたがた石碑めぐりを行い、碑文の内容(古くて判読しにくい、又は碑文の位置が高くて読めないところもあり、案内板が必要と思いますが)を理解されると共に、その時代又は人物、生活等の奈辺に想いをめぐらすこともあって、よいのではないでしょうか‥‥。
その(一) 九條武子の歌碑
(昭和四年七月九日建立)
  『たまゆらの けむりおさめて しずかなる
            山にかえれば 美るにしたしも』


と詠った歌碑が十勝岳の泥流跡の小高い這い松の中に建立されている。この歌碑は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第二十一代法主大谷光尊氏(明如)の次女で、竹柏会同人で歌集『金鈴』(大正九年)、『薫染』(昭和三年)、『白孔雀』(昭和四年)などを出版し、歌人で有名な九條武子の短歌であると認識されることもあろうかと思います。
一般的に歌碑・句碑等は歌人がその地へ行って詠ったのを記念して建立されておりますが、この歌は十勝岳の大爆発(大正十五年五月二十四日)の話を聞き、昭和二年九月五日に旭川市の旭山公園に行く途中にて詠われたものであります。
それは、九條武子が西本願寺法王の次女であったことから、仏教婦人会総裁をしており、昭和二年九月四日旭川で開催された北海道仏教婦人会大会に出席のため来道された時のことです。
大会は、一条の公園と言われた翠香園(第三代旭川商工会議所会頭で荒井建設の土台を築いた荒井初一が造った遊園地で、現在の曙町に水車を動力とする精米所を建て、その周辺約三六ヘクタールに桜やツツジを植え、水を引いて庭園を造り、翠香園と名付け旭川での最初の遊園地として開放されていた)で行われた。
その夜は慶誠寺(現在の旭川市豊岡五ー四)に一泊、翌五日は自動車四台で旭山公薗に行く途中の東旭川で車がパンクして修理した。この時、慶誠寺の先代住職、石田慶封師(俳人石田雨圃子で十勝岳中茶屋入口左側の句碑『秋晴や雪をいただく十勝岳』の詠者)がいわく、『お上を迎えて車が愛嬌をふりまいています』と言って九條武子らの一行を笑わした。
旭山公園の行き帰りに、中天高くふき上げる噴煙を遥かに眺望され、十勝岳爆発の遭難死者の霊の安らかならんことを祈って詠まれたのが、この歌『たまゆらのけむりおさめて・・・』である。
上富良野町史では、この歌は層雲峡にて詠まれたと書かれているが、上富良野町郷土館の加藤清氏(元上富良野町助役)のお話しによると、この碑を建立された門上浄照師(上富良野町本町区聞信寺の先代住職)に昭和二十七年二月二十日に直接お聞きしたことには、『詠まれた場所は旭山公園の途中であった』と前記の模様を語られた。
又、筆者が旭川市慶誠寺の現住職石田学而師にそれ等のことをお聞きしたところ、父(石田慶封師ー俳名石田雨圃子)の句碑も十勝岳にあることなので、父からも九條武子さんのことを聞いており、門上浄照師の通りですと言われました。
この歌を歌碑として建立されたのは、十勝岳を霊山とし、また十勝岳を仏教的に開発をしたいと明治の末頃から永年にわたって念願し、そして着々と実践されていた聞信寺先代住職門上浄照師である。
浄照師は十勝岳爆発による悲惨な災害と、今なお噴煙を上げている十勝岳を知って詠まれた九條武子の『たまゆらの・・・』の歌の揮毫を拝受した。この直筆の揮毫は歌碑と同じ大きさのもので、現在も聞信寺に大切に保管されております。
昭和二年九月に釆適した九條武子は、翌年の昭和三年二月七日、四二才の若さで永眠されました。九條武子の死を知った浄照師は『たまゆらのけむりおさめて・・・』の歌碑を十勝岳に建立しようと考え、檀徒の方々へ援助と協力をお願いしていた。
昭和四年七月に九條武子の兄で、西本顧寺法主である大谷光明猊下が、北海道開教百年記念法要を行うために来道されることを知った門上浄照師は、本山に九條武子の歌碑を建立することと、その除幕式に猊下の御臨席を賜わりたい旨の文書を提出していたところ、六月八日に本山より浄照師のもとへ電報で歌碑建立の許可と除幕式出席の旨の連絡が入った。
これからの浄照師をはじめ檀徒、関係者は、多忙の日々を迎えた。
早速、旭川中学校(現道立旭川東高等学校)の紫原小市先生(大正十四年〜昭和六年九月まで在職。上富良野町では富原在住の楠本圭一氏、旭野出身で紋別市森木材工業社長であった故森好夫氏等が教えを受けた)と相談し旭川地区は紫原先生、富良野地区は門上浄照師で寄附を募ることを決めた。
六月十一日に柴原先生と浄照師は十勝岳に登り、歌碑の建立場所の選定を行っている。
歌碑建立には浄照師の熱意にうたれた檀信徒の方々、仏教青年会の労力奉仕とともに、登山道路改修に旭野地区の人々の奉仕活動もあって、十勝岳の泥流跡で這い松がところどころ残っていた岩山を台座にした歌碑が完成し、昭和四年七月九日の除幕式を迎えた。
歌碑の除幕式には、九條武子の兄で西本願寺法主である、大谷光明猊下をお迎えし行われた。上富良野市街から中茶屋までは元飛沢病院長の飛沢清治氏(中央区飛沢尚武氏の父)が購入したばかりのフォードの乗用車で行くが、その車の初乗りが光明猊下であった。
中茶屋からは馬九頭で十勝岳に向う。光明猊下は矢野辰次郎氏の馬に乗られたが、乗馬が達者で歌碑の位置まで馬で行かれた。
大谷光明猊下ご臨席の栄の中で九條武子の歌碑は、昭和四年七月九日紫原小市先生の令嬢千津子さん(当時八才)の手によって除幕された。

  『たまゆらの けむりおさめて しずかなる
         山にかえれば 美るにしたしも』

の歌碑が十勝岳の噴煙を仰ぎ見る中に建立されたのでした。
大谷光明猊下は、妹九條武子が短歌の道、そして仏教婦人会を通じての社会奉仕、社会教化等の社会事業への情熱をそそいでいる中途で、四二才の生涯を終えたことに深い悲しみを抱いていたので、歌碑の除幕の際には大きく胸を打たれた様でした。そして、門上浄照師、柴原小市先生をはじめ関係者に感謝のお言葉が下されたのでした。
北海道の片田舎の末寺に、西本頗寺法王猊下を迎えるということは大変なことでありました。
これは、門上浄照師の仏門での日夜の精進と共に十勝岳を霊山としたい、そして精神教化の霊場とすべく大願をいだき、大正十年には十勝岳の中腹に太子堂を建て、その傍らに山小屋をつくり登山者の宿泊にも利用をさせながら『聖徳太子の聖範を仰ぎ日東文化の根本を探求』という目的で、困難な条件の中で、霊山として仏教的開発への永年の辛苦と努力に深い敬意を表していたからでしょう。
又、浄照師は十勝岳の仏境の地をこよなく愛し、十勝岳への登山は毎年二十回以上を数えて地理には詳しく、安政火口の下流のヌッカクシフラヌイ川の三つの滝は『勝鬘ノ滝』『維摩ノ滝』『法華ノ滝』は聖徳太子の三経義疏から浄照師が名をつけたものである。
九條武子の歌碑建立以前に、門上浄照師によって既に句碑が十勝岳に建立されていました。
『鬼樺の 中の温泉に来ぬ 橇の旅』は長谷川零餘子の作で現在は白銀荘の前にあるが、建立されたのは大正十三年である。
『秋晴や 雪をいただく 十勝岳』は石田雨圃子の作で十勝岳中茶屋入口の道路左側にあり、建立されたのは昭和二年である。
大正から昭和にかけて全国的な俳諧活動と共に北海道俳壇に多大な影響を与えた長谷川零餘子の句碑はもう一つある。それは昭和二十六年五月に美唄市空知神社境内に建立された句碑である。
石田雨圃子は門上浄照師と同じく西本願寺派の旭川市慶誠寺の住職で石田慶封師といい、大正から昭和の戦後まで北海道の俳壇の中心とし花鳥諷詠派の代表的存在であった。雨圃子の句碑も昭和十六年十月に慶誠寺内に建立されたのがある。
門上浄照師の情熱で建立された長谷川零餘子の句碑は北海道で二十七番目、石田雨圃子は三十番目に建立されたものであり、九條武子の歌碑は北海道で六番目に建立されたのです。
道南や海岸線で発達した町と違い、北海道開発では比較的遅れた我が町に、この様な句碑、歌碑があることに誇りを感じるとともに、門上浄照師の十勝岳を霊山として、仏教的、精神教化的に開発しようとした遠大な構想と意図が、脈々と肌に感じるようであります。
門上浄照師が閑係した句碑について少々記しましたが、長谷川零餘子、石田雨圃子の句碑については次号で記したいと思います。
九條武子の歌碑及び建立に至ることについてふれましたが、歌人九條武子とはどのような人物だったのでしょうか。
=九條武子とは=
九條武子(一八八七〜一九二七)は旧姓大谷武子で、明治二十年十月二十日、京都西本願寺大谷光尊(浄土真宗本願寺派第二十一世門王)の次女として生れた。
長男峻麿(後に光瑞、第二十二世門主となる)、長女文子(後に真宗高田派本山第二十二世門主の常盤井堯猷に嫁す)、次男嶺麿(後に木辺孝慈、真宗木辺派管長)、三男惇麿(後に光明、現門主光照の父)、四男徳麿(後に尊由、第一次近衛内閣の拓務大臣)の次に武子は生れた。この後、三女義子が五年後に生れている。
父の明如上人光尊門主は和歌の道に堪能で、たびたび歌の会を催した。ある日、光瑞、孝慈以下、光明、尊由、武子の兄姉や、側近の人達も作品を提出しなければならなかった。詠草はまとめられて東京に送られ、御歌所の寄人阪正臣、大口鯛二らの添削、批評を受けて返されるのだが、毎回、光瑞と武子の作の出来ばえがよく、一席、二席はほとんどこの二人が占めることが多かった。
武子は五才の時、京都師範学校附属幼稚園に入り毎日人力車で通った。人力車は二人曳きで、お付きの女中と一緒に乗った。胸に房飾りの着いた縮緬の被布を着て、髪をかぶかぶ(おかっぱ)にした本願寺の姫君の姿は、道ゆく人が立ちどまるほど愛らしかった。
七才で小学校へあがった。髪は大きく稚児髷に結い、友禅縮緬の長い袂に、袴をはいて通った。
ある年から、明治天皇のおぼしめしで、京都在任の華族の間に歌道を盛んにしようと、御歌所の歌人のうち一名を京都に常駐させることになり、和歌所の所長高橋正風や、阪、大口らがかわるがわる上洛したが、この人達は本願寺に滞泊して作歌を指導したので、短歌熱はますます盛んになり、武子はこの様な環境ですくすくと育った。
大谷家の七人の子供のうち、長男の光瑞と次女の武子がずば抜けて才智に恵まれていた。この二人は性質もどこかよく似ていた。
後に門主を継いだ光瑞は型破りの〃大物〃で、海外雄飛を夢み、西域探険、海外布教、学校経営等々不断の進取の精神に終始した人だが、武子も、後に憂愁夫人などと言われたが、生れつき明朗、快活で男まさりのところがあった。彼女の中には、奔放なはつらつとした、自由と解放を求める自然児の血が流れていて、日常どこまでも〃お姫様〃としてお行儀よく、上品に、しとやかに、つつましやかに行動することを強いられていたが、そこからはみ出してしまうようなところがあった。
武子は小学校を終えると、上の学校へは行かなかった。そのかわり家庭教師が幾人もついて、中学から大学一、二年程度までの学科を教えた。その間に早くも彼女の宗門生活というものが始まった。
彼女は生れにふさわしい、高貴な、気品の高い美貌の持主であった。そのため、地方の門信徒の間に甘美な憧憬と讃仰の情を湧き立たせ、彼女が巡化に出て、あどけない声で法話をすると、念仏の声がひときわ高くなるというので、本山ではしばしば彼女を教勢拡張と普及宣伝にお願いをした。そのため、彼女は天女のように、神々しい、夢幻的な女性という風に世間で後々まで通っていたが、実は相当のいたずらっ子で、お茶目な女の子であったという。
明治二十四年、十六才で新門主となった長兄の大谷光瑞は、明治三十年、二十二才の七月、五年前に縁女として入輿していた九條籌子と内婚の式をあげ翌年一月三十一日、有栖川宮熾仁親王の媒酌で正式に結婚した。
籌子は、公爵九條道孝の三女で、非常に美しく聡明であった。(因みに籌子の妹節子は大正天皇の皇后となった)
光瑞にとって、籌子は理想の女性であった。妹の武子と、血をわけた姉妹ではないかと思われるほどよく似た美貌で、才知にたけた人であった。光瑞はこの人を溺愛した。しかし、不幸にして籌子は、結婚生活十三年、三十一才の若さで世を去った。
明治三十六年の正月は、例年より寒さが厳しかった。本願寺では、新年の儀式が故実にしたがって行われたが、正月三日には、シャム国の皇太子マル・ワジラウッド殿下が本願寺へお成りになるということで、寺では歓迎の準備に忙殺されていた。
三日は朝から特別の寒さであった。マル・ワジラウッド殿下は午後二時四十分に本山に着き、白書院一の間で休憩の後、本堂で参拝、諸員の拝謁があって、斉食の饗応を受け、午後四時四十七分出門、東本願寺へ回られた。
殿下の御到着から御出門まで、約二時間、明如上人光尊は門主として席につき(光瑞は外遊中)、なすペきことをおこなったが、保温の設備のない旧式の日本間にしのぴこむ寒気のため、悪寒に震えた。前年からのリュウマチに、寒さと激痛が全身をさいなんだ。
皇太子の馬車が本願寺の門を出た途端、明如上人はよろよろとよろけその場にうずくまった。待臣が急いで駆け寄った。青白い額に汗がにじんでいた。
『これはいけない、おそろしい熱だ。早くお寝床を・・・』、そのまま小書院にかつぎこまれ、床に臥せた。主治医、その他の専門医が呼ばれ、東京からは、宮内省前侍医局長池田謙斉が招かれ診察したが、首をかしげるばかりであった。
明治三十六年一月十六日午後危篤に陥り、十八日午前一時半、明如上人光尊は五十四才の生涯を閉じた。
武子は、彼女を誰よりも可愛がってくれた父の突然の死によって、大きな打撃を受け、悲しみにしずんだ。
その年の三月十一日、兄光瑞はインドから帰国して正式に二十二世門主の地位についた。
明治三十八年、日露戦争が終った頃、本山では武子の縁談が問題になっていた。武子はすでに十八才で、この世界では、もう婚期を過ぎかかる頃であった。
いろいろと候補が上ったが、いずれも一長一短でなかなかまとまらず、閑係者が考えあぐねた頃、籌子が、自分の弟の九條良致はどうかと言い出した。
良致は九條公爵家の子だが、分家して男爵家を創立していた。大学で天文学を専攻し、現在は銀行に勤めているが、将来は研究生活を続ける方針の、温和でまじめな青年であった。
ただ、良致は背が低く色が黒く、風采のあがらぬ人であったようだ。はじめ一條家へ養子にいって一條姓を名乗っていたが、結婚する予定だった姫君に嫌われ、離縁になり実家に帰っていた。姉の籌子にしてみれば、弟が可哀いそうで、それなら日本一の美人を嫁にもらって、一條家を見返してやろうという気持があった。
良致との縁談に、兄光瑞門主は異存がなかった。本人の良致も大乗気であった。武子はあまり気が進まなかったが、朝夕に顔を合せている義姉の籌子を失望させるのではとためらわれたので、生返事をしているうちに、話の方はどんどん進行した。
宮内省から勅許も下り、東京の九條家本邸で婚儀があげられたのは、明治四十二年九月十五日であった。家柄も、財産も、名誉も、何ひとつ欠けたところのない二人の結婚を、世間の人々は祝福し、羨望した。
武子は九月に結婚して三ヶ月、九條家にあって新妻らしい生活をしたのち、良致がケンブリッチ大学へ留学するためと、新婚旅行の目的とを兼ねて一緒にヨーロッパに旅立った。マルセイユに上陸してからはほとんどはなればなれに暮していた。その頃、兄の光瑞と籌子がヨーロッパに来ていて、八月の中旬頃に日本に帰るという時、良致が武子に『あなたも日本へ帰ったらいいだろう。僕は一人の方が、勉強に好都合です』と言った。それは、何とも言えない冷い響きがあった。しかし武子はその時、良致の言葉をそのまま素直に受けとり、勉強のさまたげにならぬようにと一人先に帰ることにした。
武子が光瑞、籌子と一緒に敦賀に上陸したのは、明治四十三年十月一日であった。
九條良致のヨーロッパ留学は、三年間の予定であった。三年という年月は長いようでもあれば、すぐ過ぎてしまうようでもあった。若くて世間知らずで、人生についても経験の少ない武子にとって、結婚した男と女が三年も別れて住むということがどれほど重大か、わかっていなかった。

 かりそめの 別れて聞きて おとなしう
      うなづきし子は 若かりしかな

これは後々に、武子が詠んだが、そう気がつくのがあまりにもおそかった。武子は、三年も別れていることが、どれほど不自然なことかもわからず、良致を置き去りにして帰って来てしまったが、その三年が二人の間を一生裂いてしまったのである。
武子は日本へ帰ると、京都の大谷廟所ー生母の円妙院の住んでいるところに一緒に住み、毎日のように錦華殿へかよって、籌子と一緒に仏教婦人会の事業計画を練っていた。二人はヨーロッパの婦人運動や、女性の社会活動の状態を見聞するにつけても日本のおくれた婦人界を早く向上させようという意欲にかきたてられていた。ところが、日本へ帰ってわずか三ヶ月たらずで、兄嫁の籌子が突然亡くなってしまったのである。
籌子に先立たれた武子は、まるで暗夜の灯火を失ったような思いであったが、そうなるともう頼るべきものはない。自分自身が灯火になるより仕方がない。武子は意を決して、仏教婦人会のすべての責任を引受けることになった。
一方、武子は少女の頃から、父光尊門主から歌を習っていたが、成長するにつれ従来のような古風な歌にあきたらず、当時新風を誇っていた佐々木信網の指導を受けようと思い、大正五年九月に上京すると、時の司法大臣尾崎行雄の紹介で、芝の紅葉館ではじめて佐々木信綱に会った。そしてその主宰する竹柏会に入会を許された。
やがて、九條武子の歌は竹柏会の『心の花』に掲載されるようになった。

 元旦の 光みちたる 鴻の間
     君なき春を 久しとぞ思ふ

 見わたせば 西も東も かすむなり
     君はかえらず 又春や来し

これらの歌は竹相会の『心の花』に(秋の夜)という匿名で載った。その(秋の夜)とはどういう人だろうかということになった。それがやがて、本願寺の息女九條武子であるということが知れて、人々はうなずいた。
その歌のように、武子の夫、良致は、三年の歳月が過ぎても帰って来なかった。それどころか、もう六年も過ぎている。世間は武子に同情の涙をそそいだ。本願寺の姫君、光り輝く美貌、打てば響く才気世の栄華を一身に集めた人が良人に捨てられ、一人寂しく等々、ジャーナリズムに打ってつけの話題であった。武子は新派悲劇のヒロインに仕立てられ、日本中の女性の苦悩を一身に背負って苦しむ受難の人のように見られた。
九條良致が帰国したのは、大正九年十二月であった。十年撮りの帰国に武子は神戸に迎えにいき、船のデッキで冷やかに再会の挨拶をした。二人は新しい住居を築地本願寺の奥においた。しかし、二人の間はやはり昔とかわらぬ冷たさであった。
武子は、専ら情熱を社会事業にそそぐことと、歌で己の生きる道を考えた。丁度その頃はデモクラシーの波が高まると共に、宗教家の社会奉仕、社会教化の活動が叫ばれた時代で、武子は仏教婦人会の責任者として、あらゆる奉仕に献身し、公私の会合に努めて出席した。
大正十四年、武子は本所緑町に貧しい人々のための診療所を開設した。また、本所、深川のいわゆる貧民街を巡回して、見舞の金や品物を配って歩いていた。金持の道楽と嘲笑されたり、時には尖鋭な社会主義者から面罵されたが、彼女は屈しなかった。
武子は北海道には明治四十五年七月、大正九年七月、大正十二年六月、大正十五年八月、昭和二年八月と五回にわたって来道されている。
九條武子の歌碑は、北海道にもう一基ある。それは昭和三十一年五月十六日建立で、旭川市神居古澤にあって、次の様に詠っている。

 たぎつ波 真しろ白う 岩に散る
    神居古澤の くもれる真昼

昭和二年十二月、武子は歳末の慈善診療に無理をして風邪を引き、年を越しても治らず、昭和三年二月七日肺血症を併発して悲運の四十二才の生涯を閉じた。
九條武子の歌集には『金鈴』『薫染』『白孔雀』などがあるが、武子が亡くなる十日前の昭和三年一月二十七日、九條武子作の舞踊『四季の曲』が、七曜座の人々によって、市村座で上演された。これは武子の、最初に上演された舞踊であり、そしてまた芸術の世界での最後の仕事となった。
『四季の曲』は春夏秋冬の四部にわかれる舞踊で春は『紙雛』・夏は『すずみ』・秋は『きぬた』・冬は『こがらし』と題して、舞い狂う落葉の寄って乱れるさまをあらわしたもので、散りはてた後のわびしさを、武子は次のような歌で結んでいる。

 きれいさっぱり 別れては
    夢を追ふべき 罪もなく
      ましてぼんのう なんのその

 色即是空 空即是色
    胸もはれたり 晴れてゆく
  冬の夕日が あかあかと
      空のつめたさを おともなし
参考文献
  「真宗年表」「旭川九十年の百人」
  「北海道俳句史」「物語女流文壇史」
  「北海道短歌事典」「北海道文学地図」
  「札幌の短歌」「上富良野町史」

機関誌郷土をさぐる(第1号)
1981年9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一