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戦争体験記(囹圉記)(上富周報より転載)

故 岡崎 武男

◇概  要
ビルマ戦線で転進に転進を続け、逃げ廻ってビルマの南端に追いつめられた時、猛烈な熱帯のマラリヤに浸されて意識を失い、タイ国バンコックの陸軍病院に護送され到着した日が図らずも終戦の日であった。
一部の部隊は国籍を離れても死ぬまで戦うと頑張ったが「能く堪え忍べ」との停戦詔書を必謹して、全軍が連合軍の指示に従い、中でも憲兵隊、俘虜収容所鉄道隊、特務機関、一般警備隊の敵軍や現地人に接近の多い部隊は殆んど戦犯容疑者として投獄された。その後約半年を獄中から埠頭倉庫へ、そしてバラックの兵舎や伝染病棟から再び投獄と、バンコックの街をいかめしい連合軍の自動小銃におびやかされながら引きずり廻され、遂に終戦の翌年三月原隊のビルマ、ラングーンヘ引戻されて本私的な戦犯審理が始まった。
戦争中の警備や捕虜の取扱い、現地人との問題が戦犯として取上げられ、毎日のように首実験や呼出しで犠牲者が出た。
起訴されたものに「戦争犯罪」と謂うこと自体に何としても割り切れない疑惑をいだき乍ら、戦犯法廷で最後まで争ったが日本人弁護士の努力も空しかった。
此の間約一年、獄中は極端な食糧制限を受け、皆は餓死寸前に追い込まれ、遂に脱獄、発狂、自殺、の事故が起き、他面戦犯の処刑が相つぎ、銃殺刑を吾々の眼前で執行したこともあった。
私はビルマに移送されてから、此のような地獄生活の中で、私も亦何時生涯を終えるか予測出来ない事を覚り、戦犯処刑者の事情と共に命のある限り記録を残して置さたいと決意して「れいご記」を書く事にした。
極度の食糧難で一時は書く気力がなく、一日一句の出まかせ俳句にした事も暫く続いたが、どうにか生命を長らえて帰国する迄書き続ける事が出来た。
獄中の書物は、一切禁じられていたが、マッチ棒程の鉛筆を獄窓の鉄枠の中に隠し、毎日支給されるトイレットペーパーの、三枚の中から一枚づつ残し又、護衛兵の投げたタパコの包装紙と一緒に綴って日記帳を作った。
時たま、所持品検査の時は、窓外に投げた事も幾度かあったが、復員するとき「リュック」の底に戦犯者の遺書と共に、持ち帰ることが出来た。
戦犯抑留略歴
 昭和二十年 八月 十四日  停戦
   〃   十月二十九日  パンワン刑務所に入所
   〃  十一月二十一日  ドモワンキャンプに移動
   〃  十一月二十九日  バンコック国際埠頭に移動
   〃  十二月  一日  バンコック国際グランドに移動
 昭和二十一年一月 十二日  バンワン刑務所に移動
   〃   三月  四日  ビルマに移動出発
   〃   三月 十二日  ラングーン刑務所に被収容
   〃  十二月二十一日  出獄アロン抑留所へ被収容
 昭和二十二年六月  一日  コカインキャンプへ移動
   〃   七月 十三日  アロン乗船キャンプに移動
   〃   七月 十九日  乗船祖国に向う
   〃   八月  十日  佐世保上陸
   〃   八月 十四日  上富良野着
抑留までの経緯
昭和十九年四月二十四日南方軍憲兵隊に転属(上敷香出発、四月三十日門司に到着、五月十三日門司出港、フィリピンマニラ港寄港の上、五月二十五日シンガポール到着
五月二十五日緬旬憲兵隊に転属被命(於晴雨)
六月八日シンガポール出発、陸路六月二十二日緬旬ラングーン到着。
七月八日緬句憲兵隊司令部付被命
昭和二十年三月一日任陸軍憲兵曹長、四月二十四日ラングーンよりモールメンに転進、四月二十九日到着。
六月二十四日マラリヤ熱病により南方第一〇六兵たん病院モールメン分院に入院、六月三十日ウエカン分院に後送、七月九日治癒退院、七月二十四日マラリヤ病再発の為モルメンにて入院、トクー分院、ウエガン分院を経て八月十日ウエガンを出発、バンコックに後送。
八月十四日バンコックに到着、南方第一六陸軍病院第三分院に収容さる、八月十四日停戦、泰憲兵隊に転属被命、十月二十九日パンワン刑務所に入獄。
八月十四日停戦
マラリヤの熱病にて、六月二十四日モールメンにて入院、八月十日ウエガレ療養所よりバンコックに後送され、停戦の夜到着す。
而し、八月十六日詔書奉読式迄は、全く停戦の事実を知らなかった。
熱病で後送されし、バンコック再起ぞ遅し、停戦の日にパンコックの病舎にありて、停戦の詔書を拝す己が不忠義、うつろにも見上ぐる空に、白雲の高く浮びて天命を知り、憲曹で終りを告げぬ吾が、一生不忠不孝の二言に尽くのみ。

八月二十五日
病床の 窓にとどろく 住民の
俘虜を迎ふる 感激の声

八月三十日
白旗を 掲げて走る 友軍の
軌道の影ぞ いたく目に滲み

九月十九日
友は皆 入嶽せりと 風に聞き
ペットに伏する 吾ぞはかなく

九月二十五日
停戦の 詔書を拝し 病状の
悪化せし友 勘なからむり

九月三十日
本院南方一六陸病に移さる
軟禁の 病室に伏し 治癒を待ち

十月二十八日
退院の命令受けて入浴

十月二十九日(退院入獄)
午前六時起床、病院のトラックにて終戦処理司令部に送られ、米軍に引渡さる。
十時半、英軍の警戒裡に、トラックにて司令部を出発、行先不明にて、不安の内に、十二時パンワン刑務所に送られる。
英人の 辛き警備を 背に受けて
ひかれ来たりし パンワンの獄
今日よりは 沙婆の草木と 別れなば
いずれの果に 吾は行くかも
獄の門 如何なる地獄が あろうとも
勅令畏み 我は進まん
パンワン刑務所に収容され、褌一本にて厳重な身体検査を受け、毛布、着替一枚のみの所持を許され、監房に入れられる。
雲をつく レイゴの門に 入る吾は
屠場に引かるる 子羊の如
素裸で 受くる検査の 柵越しに
眺むる友に 我は意気ずき

十月三十日
無情素足の獄中生活はじまる
獄中を 歩く素足に やける石

十一月一日
刑務所を警備する英軍は、所長、若しくは副官が英人で、他は皆グルカ人、又はバンヂャビーの黒人部隊である。
これらの兵隊は、英人の指揮下に在って、実に忠実に勤務しているが、彼等自身が英国の奴隷民族である事を、良く認識して居る。
英軍の 指揮下にあれど グルカ兵
亜細亜の民と 云いてありけり
英語にて 話しかければ バンヂャピー
印度語教ゆと 煙草差し出す
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機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一