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自衛隊演習地買収問題について

村上 国二 (七十七才)

十勝岳山麓に自衛隊演習場を作りたいとの話があったのは、昭和二十七年頃であった。
必要な面積は三千町歩から三千五百町歩を確保したいとの意向が伝えられ、さっそく調査と交渉が始まった。
当初は、価格が三億円と言われていたが、防衛庁への要求額は五億円位であったと思う。
初めは、米軍との共同演習場と考えていたのか、しきりに米軍将校がやってきたが、次第に自衛隊のみが使用する演習場にと固ってきたようであった。
調査交渉が進むにつれて、色々な問題が浮び上がって来た。まず、演習場となる森林の木を伐ると、水源地の水が枯渇し、下流の水田用水が不足することと、大雨の時には水害が起るおそれがあることである。
このことから、主に東中地域の住民に反対者が多く、この解決のため、農林省に対して水の確保、風水害の予防対策等、様々な要求を出したのであるが、これは東中地区ばかりの問題でなく、富原、旭野、日の出地区からも同じ要求が出された。
水田用水の問題では、各地域を流れる川の中でも比較的大きなベベルイ川の水が、大きな問題として浮び上ってきた。水の不足を補う対策として、布部川から倍本のベベルイ川に水を引くことにし、水温の上昇をはかるために、温水ダムを造ることなどの方法が提案され、その額は五千方円は必要であるとして、防衛庁と農林省に交渉した結果、地元側との合意がなされた。
また、水害や風害の対策には、ベベルイ川上流に三百町歩の森林地帯を、水源涵養と防風林として残すなど、民生安定のための施策として七項目(町史参照)の要求を定め、交渉に当ることにした。
関係方面から代表を選び、防衛庁、農林省に出向いて交渉に当ったが、委員には町長田中勝次郎、役場事務局から久保茂儀氏のほか数名が選出された。
また、議会もこの問題で度々召集され、交渉にも代表を送って当ったが、交渉はなかなか難行し田中町長も困ってしまった。
ある日、議会の総務委員会が召集され、私も出席したが、買収が決まらないために再度上京し、早く決定したいとの意向が町長から話された。
席上、町長から「今度の交渉には村上副議長も同行してはしい」との要請があったが、委員の中には「副議長は今まで一度も交渉には行ったことが無いので、やはり今まで通りの委員が行くのが良い」という反対意見が出された。
また、他の委員からも「副議長が行っても東京見物に連れて行くようなものだ」といった非常識で侮辱的な意見や、「副議長が交歩しても二百万以上高くは買い上げてくれないだろう」という言葉も聞かされた。
当時、私は農協専務を務め、また森林組合理事などを兼務していたので、多忙の身であったことと、その頃の上京には、今のように飛行機も無い時代で汽車で往復五〜六日も要し、一週間以上の日数が必要なこともあって、委員からの嫌がらせを聞いてまで行くつもりはなかった。
しかし、田中町長は、「今度の交渉は演習場内の立木の価格の問題であり、経験のある村上さんにぜひ行ってもらいたい」と、何度も要請された。町長とは森林組合で同じ役員を務めており、断ることも出来ずに一緒に参加することになった。その時の代表として、町長田中勝次郎、事務局から久保茂儀、議長福家敏美、参議院議員石川清一の各氏と私の五名であった。
私達代表は重大な責任を負って上京し、上野の富士旅館に宿泊した。
防衛庁には翌日の午前十時に到着し、再度交渉に来た旨を伝えて会議に臨んだ。防衛庁からは係官十名程が出席され、私達五人と向き合った。
景初に防衛庁側から「町長は、先般帰る際に『よろしゅうございます』と言って帰ったのに、なぜ再度交渉に来たのですか」と聞かれた。
私は一歩前に出て、「これは町長の土地ではないので、町長は防衛庁と地主との中に入って、お世話をしているわけで、地主側が納得しなければ承諾の印がもらえません。前回防衛庁から示された価格を持ち帰り、地主側に話したところ、価格が折合わなくて全然聞いてくれないし、地主側は『町長は我々を殺すのか』と言って食ってかかる有様です。だから、防衛庁が立木の価格を引上げてくれなければ地主側はどうしても納得してくれないのです」と申し上げた。
次は「演習地内に水源涵養林と防風林を三百町歩残す、とあるが、図面の面積と全然合わないではないか」と言われたので、私は、「これは演習場予定内のベベルイ川本流を上流に一里半(六キロメートル)の距離を、百五十間幅(二百七十メートル)で両岸に予定し、その他の小川も同じく百間幅(百八十メートル)で残す計画であったはずです」と答えた。係官はすぐスケールを図面に当てて計算したが、「それであれば大体合っている」と、頷いた。
次に、「立木の価格は、どれだけ高く買ってほしいのですか」と聞かれた。
「防衛庁から示されている立木の価格は安すぎるので、一千万円上乗せしてほしい」
「防衛庁では、営林署の見積り価格を基に算定しており、安くないはずだ」
「それは営林署の見積り価格が低すぎるのではないですか」
「営林署は、標準地調査をしているので安くないはずだ」
「いや、実際の売買価格よりも安すぎる」
交渉は同じことを何度も繰返し、平行線になってしまった。
「私は木材事業を十年間経験しており、営林署と私の算定では大差がありすぎます。大体三千町歩の山を二億五千万円で買うと言うのは、初めから安すぎる。それだから、地主の住民は町長に、『我々を殺すのか』と言うのだ。私も山を百町歩持っているが、百町歩で一億にしようと思っているのに・・・」などと話しているうちに、昼になってしまったので、昼食のため一時間ほど休憩を取ることにした。
午後からは、一時に再開され話し合いが始まり、席に着くと、防衛庁の係官は、
「村上副議長、あなたがそれほど詳しいのなら、演習場内の立木石数と、樹木別の石数単価を割り出して、明日の午前十時までに詳しく書いて持って来て下さい。もし、それが適正な価格であれば、上積みしましょう」と言われた。
「それでは、これから旅館に帰って計算し、約束の時間までに作って来ますが、適正価格が出たら、まちがいなく上積みしてくれますね。うそは言わないでしょうな」と念を押した。
「防衛庁はうそは言いません」との言葉を聞き、急ぎ旅館へ戻った。
旅館に帰っても、交渉の約束は私一人で運んだ結果になり、その責任の重さもあって心が落着かないので、風呂に入って心を落ち着けることにした。
風呂に入りながら、明日の交渉についてあれこれ考えていると、防衛庁から電話が来ていると知らされた。何事かと思い、急いで電話口に出ると、今日の交渉の中で言葉づかいが大変失礼である。明日からは言葉づかいを改めるように、との注意であった。地元の人々の気持を何とか理解してもらおうとして、つい熱が入ってしまったのでは、と反省した。
風呂から上がり、夕食を済ませてくつろいでいると、町長や他の人々は「村上さん、今日防衛庁と約束した計算書を早く作らないと、明日の十時までに間に合わないから早く計算を・・・」と、急がされた。しかし、私は明日の交渉での全体構想もまとまらず、胸が騒いで落ち着かないため、「パチンコをやってくる」と言って上野へ出かけた。
十時過ぎになり、千円ほど負けて帰って来た。むろん勝つつもりもなく、ただ、心を落ち着ける為と東京の夜は車の音が騒々しく、また旅館の中も泊客の声がうるさくて気が散ってしまい静かに物を考える事が出来ないために時間つぶしの意味もあったのである。
夜十一時、外ではまだ車の往来が少なくない。
私は、「もう、みんな休もう」と言って先に布団の中に入った。もちろん眠るためではなく、みんなが明日の事を心配して起きていては困るからである。
十二時を過ぎ、夜も更けて来ると話声も無くなり、静かになって来た。
私はさっそく床から抜け出し、演習場内の立木の計算を始めた。まず、現地の状況や面積を頭に浮かべ、木の産額、用途、価格などを考えながら次々に筆記し、また考えては筆記するといった作業を続けた。気がついた時にはもう外は明るくなり、時計の針は六時を廻っていた。筆記した資料は西洋紙二十枚にもなってしまった。あとは計算のみである。
私は計算ではやはり久保茂儀さんの力を借りることが一番と思い、久保さんに起きてもらうことにした。
久保さんを起こすと、「村上さん、もう起きていたのですか」と驚いていたので、「いや、私は昨夜みんな寝静まってから、朝まで寝ずに考えて書いていたので、この資料を私の言う通りに計算してほしいのだが」と計算を頼んだ。しばらくして計算の結果が出たが、私の予想通り要求していた金額とぴったり一致し、増額を要求していた一千万円が正しいことが判明した。
資料の内容は、立木を抗木で売った場合、パルプ材として売った場合、木炭として焼いて売った場合の三通りに分けて計算し、経費として造材費、演習場から市街駅土場までの運賃、駅から炭鉱までの貨車貸などを差引いた収益を詳細に記入してみた。
これらを一枚の表にしてから皆んなを起し、資料を見せた。皆んなも大変喜び、これなら大丈夫と言って朝食を済ませ、防衛庁へ出かけた。
咋日と同じ部屋に通され、「約束通り、適正価格を算定した一千万円の増額要求の資料は、この通りです」と言って、書類を提出した。
防衛庁の係官は、順次回覧して書類を見ながら、次々と質問が出された。資料は、昨夜自分が考えながら作成したものであり、質問には即答で応え、一分のすきも無いため、防衛庁も困ってしまった。
約束の励行は防衛庁のみでは出来ないので、電話で大蔵省の係官にも来てもらい、相談することになった。
防衛庁と大蔵省で相談の結果、「七百万円を増額するから、それで決めてもらいたい」と、提示された。私は、「絶対に一千万円を切る事は出来ない」と譲らないので、話しはまた平行線になってしまった。
国側は、同席している石川参議院議員に助けを求め、「石川先生、何とか歩み寄りで話しができませんか」と、石川さんに話しかけたが、石川さんも、うなずいただけで返事が出来ないでいた。しばらく沈黙が続いたので、「一時休憩して、別席で相談してほしい」と言われ、皆んなで庭に出て相談することになった。
松の木の下に腰を下し、皆なで話し合ったが、結局、一千万円を切ることはどうしても出来ないと言うことで意見が一致した。
再び話し合いが始められたが、国側も仕方なく、立木に対する増額は八百五十万円とし、残りの百五十万円は事務費として別に支払うという事で、話し合いがまとまった。
安堵の気持で防衛庁の門を出る時、石川さんは私に、「今度の交渉の成功は、村上さんの功績でしたね」と言い、私を労ってくれた。
防衛庁を出てからその足で農林省に出向き、和栗課長に交渉結果を報告したところ、課長は「よくやりましたね。それにしても防衛庁は良く増額を承諾したものだなあ」と、感心され「今度帰る時は大威張りで、凱歌を上げて帰りなさい」と、激励してくれた。
好結果を得て町に帰り、さっそく関係者会議を開いて交渉の内容と結果を報告したところ、地主住民も大変喜ばれ、全員の賛成を得て調印してもらうことができた。
二ヶ年にわたった演習地の買収問題も、ようやく終止符がうたれることになったのである。
しかし、この交渉に際しては、町長田中勝次郎さんのご苦労は大変なもので、特に交渉中に疲労のために病気にかかり、二日日の防衛庁との交渉には旅館で養生をされていたので、交渉の進展をどんなにか心配であったことかと、その心痛が痛い程察せられた。「交渉がうまく行かなければ、帰ってくるな」と語気を強くして言われていただけに、交渉成功の知らせにどんなにか喜ばれるかと思うとその時の様子が目に浮かぶようであった。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一