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十勝岳爆発災害の思い出

田村 嘉市

私の父、田村 勘は、明治三十年四月、十九才の時三重団体の一員として田中常次郎さんに引率され、三重団体に入植、檎の木の下で一夜を明かしたと言われている。
一緒に入植した方で、大正十五年の爆発災害の為死亡したり、他に転居したりして、入殖時から引き続き同じ場所で営農を続けているのは、私の家一軒となりました。
最初は平岸に着き、滝川から旭川を廻り、現在地に落ち着いたという、入殖時からの苦労話は父から良く聞かされています。

泥流に遭遇

私はここで生まれ、上富良野小学校を卒業しました。大正十五年の爆発の思い出を話してみたい。
五月二十四日は朝から雨ふりで、山は麓からガスがかかって見えない状態でした。
例年なら農作業も進んでいましたが、この年は融雪も遅れ、代掻等の馬仕事等も残っていて、私は朝から代掻作業をしていました。
蓑もすっかり濡れたので、午後三時頃作業をやめて家に入り、風呂を沸かして入っていたら、ドカーンと言う音がし、雷かと思っていたら家に響いてきました。
しばらくしてダーツと言う音がしてきたので、変だなと思っていました。母親は、こんな日だし、ぼたもちでも作ろうと言ってあずきを炊き始めたところ、家の前からえらい叫び声が聞えて来ました。
何だろうと思って外に出てみると、すぐ前の篠原貞一郎さん(母の実家)と忠吉さんの両家の家族が走って来るので、山の方を見ると真黒な山のようなものが覆いかぶさって来る様に感じました。
見ているうちに目の前の篠原さん両家が潰されてゆき、篠原さんが逃げて来るので、私も一緒に逃げましたが、水が出たとは気が付かず、走りながら水に気が付きました。
西三線から山の方へ登りかけた時、水を被り、そのまま山の西側へずんずん流されてしまいました。
私はいよいよ死ぬのではないかと思いました。
泥水を頭から被り、真暗の中で死ぬ時はかなり苦しいものだと聞いていたが、さほど苦しくはないので、目を開けて見たら、流木の上に乗って流されていました。
鉄道線路が築堤の役割をして水勢も衰え、立野さんの付近で止まったので、這い上がろうとしましたが、その時、私は袷の寝巻きを看ていたので、着物に泥水が付着して重くて動くことができず、着物を脱いで裸になって丸太の上を渡って行きました。
部落の人は私の姿を見て、犬が流されて来たと思ったと言っていました。
こうして私は辛うじて一命を取り止めることができました。五才と七才の弟が一緒に流されましたが、とうとう帰らぬ人となってしまいました。五才の弟が私にくっついて離れないので、その弟を連れて逃げた為に、私も一緒に流されたのですが、上の弟と兄は助かりました。
三十号の鉄道官舎の処で、家の中に入ってみたら皆逃げていないので、家の中のタンスから着物を無断で借用し、近くの吉沢さん宅に一晩泊めて貰い、風呂まで沸かしていただき、やっと人心地がしました。
鉄道線路の復旧
鉄道線路は枕木から流され、被害も大きく、復旧には一ヵ月を要すると言われていました。
その晩から資材が運ばれ、保線区の方も多勢集結し、昼夜兼行で作業が進められたので、二十八日午後二時二十分に復旧開通したことは、敬服を通り越して、むしろ驚異に値するものでした。
後日の新聞にも出ていましたが、わずか五日間の短日で復旧したことは、専門家も賞讃していると報道されたことを記憶しています。
災害の復旧工事も、吉田村長さんの信念で実施されたわけで、泥流が一から二メートルも堆積したため、見切りをつけて他町村に転出された方も相当居ました。
私共は、第七師団からレール、トロッコ等が貸与されたので、軌道を敷設し、客土を実施しました。
私の土地は山が近いので、客土の量も相当入っています。
当座の収入もなく、生活に困っていたところ、河川の改修事業や、道路の復旧工事に出役して、賃金収入の道も開いてくれたので、大変助かりました。
今では灌漑水も日新ダムが完成し、真水に切り替えられたので、災害を受けなかった土地と変わらない収穫を上げるようになりました。
私の家も、今は三代目が中心になって働いていますが、農業を続けていてつくづく良かったと思っています。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一