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硫黄山で遭難した人の手記

熊谷 友吉 (七十九才)

硫黄山とは十勝岳のことを言い、十勝火山脈の一尖峰で、前十勝岳の北東に大きな摺鉢のような火口があり、火口西側壁の大小無数の噴気口から吹き出す噴煙に煙道を施設し、これを通過し出口で凝固した硫黄を採取し、冬期間は火口上の台地に集積して夏期間に搬出していた。
私共は七人で二班を編成し、一週間交替で火口の下に作った作業小屋に寝泊りして、凝固する硫黄を採取していた。大正十四年の十一月から、交替で火口下で勤務していた。
大正十四年の春頃から、噴き出す硫黄の量が多くなった。美瑛岳寄りの方にも噴気口が新しく出来て、一番大きい火口からは直径二尺(約六〇糎)の土管で、五十米ぐらいの噴煙を通して採取していた。
夏には硫黄を含んだ鉱石も相当掘っていた。それは元山の簡単な製錬設備で砂等を除去していた。麓の中茶屋の製錬所では粗製の原石を溶かし、上の浮遊物と下に潜る砂利、砂等を除去し、丸型の型に入れて固め、直径一尺(約三十糎)長さ二尺(約六〇糎)程度のもので重量は十六貫(約六十キログラム)あった。これをこもで包み梱包した。
煙道から採った純度の高い良質のものは叺に入れて包装した。生産量は一冬(十一月から五月)で二〇〇〇屯ぐらいと言われていた。
作業は前記火口の中で、大小四十から五十箇所の煙道を作り、煙の出具合で煙道の長さを加減した。
火山の活動もだんだん活発になり、正月頃からは大きな噴気口から二十米ぐらい火を吹き上げていた。
熟練者は九州の人が多く、大きな焼けた岩石を吹き上げ、玉石をまいたように飛んできて、集積した硫黄の上に落ちると燃え出し、消すのに苦労した。
吉田村長の要請で、側候所から専門の技術員が来て調査をされましたが、「安定している」とのことでした。あとで考えて見ると、口がふさがったので地下の活動が激しくなり、爆発となったのではないかと思います。
我々作業班は、三月頃から噴火口の活動も落ちついて来たようなので、五月の初めから鉄索の修理を行ない、明日から山に登り運転の段取りにかかる事になっていたが、五月二十二日から雨が降り始め待期していました。
山は連日にわたり鳴動激しく、二十四日午前十一時頃大爆発があり、異様な轟音がするので、不安を感じていたところ、元山事務所から電話で「朝から硫黄山が鳴動してすこぶる危険のようなので、一度視察をしてもらいたい」との連絡があり、藤倉氏以下私共六名は、中茶屋の事務所を出発、元山事務所に向い、ずぶ濡れになって元山の飯場についた。
飯場で丹前に着がえて十分程たった頃、大きな音響と共に飯場が揺れだしたので、「地震だ」と言って皆んな外に出ました。その時飯場には十人ほど居たが、外に出て山の方を見ると大きな山が渦を巻いて覆いかぶさって来るので、夢中で記念碑のある方のがけにはい上った。
下を見ると、樹木も根底から削られ、赤土のはげ山となり、富良野川の峡谷に突入していきました。
丁度風呂場が山手に入り込んでいたので、そこに八人ぐらい入浴中であったらしく、がけに集まった人は其の時九人程で中には裸の人もいた。
小樽出身の会計主任の古瀬栄一さん、山坑主任平山為一さん、妻のスギさん夫婦、大沢勇四さん、佐藤義一さん等はその場で惨死した。
私共下から登っていった者も、一服する暇もなく瞬時の出来事で、逃げ出してがけの上から見ると、一面はげ山になり下流の方でガンガン鳴っていた。
私もがけにはい上ろうとした時泥水をかぶり、丹前も引きさかれていました。あとで古瀬栄一さんと思われる人が新井牧場の入口まで流されていたのを家族の方が引き取り、葬式を済ませた。その後飯場に居た五郎と言う犬が、地面を掘り始めたので、掘って見たらこの人が本当の古瀬さんであったので、再度家族に引渡した。
事務所の仕事をしていた岩城ナミさんは、鉱夫の一人と低みの道路の方へ約一〇〇米走り下ったが、ワイヤーに足をとられてそのまま泥中に沈んだ。約二〇〇米程下の方に死体となって岸に押し上げられていたが、その姿は腰部より上はちぎれて、下半身のみのむごたらしい死体となって発見された。上半身は二十六日に発見された。
飯場にゴロ寝していて死んだ人も相当いた。
九州から来ていた十八才か十九才の若い者二人は泥流が索道に押し上ったのを見て、中茶屋の事務所も流れたと思い、はだしで雪の中を夢中で逃げ、藤井農場の方までいったようである。途中ヌッカクシ川を渡り、やぶの中も残雪の上を素足で歩いたらしい。
私共は、その晩吹上温泉で飛沢辰已さんから着物を借りて着替えた。夜になると山加農場や十人牧場の人々が救援に登って来た。小爆発は続いたが、大きな爆発はなかったようである。
一週間程してから相良義雄さんと二人で噴火口まで見に行ったが、途中岩石の割れる音が無気味であった。
一般の人の登山は禁止されていたが東北大学の中村博士、次に北海道大学の田中館博士一行が調査に来て随行した。その時の話しでは、白金のでっぱりを乗り越えて、美瑛川をつき切り対岸のがけに乗り上げた泥流の水速は、推測するに時速四十キロ位だろうと言われていた。
噴火口で苦楽を共にして働いた同僚のご冥福を祈りつつこのペンをおく。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一