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十勝岳爆発の思い出

佐川 亀蔵

私の人生七十三年の中で、大正十五年五月二十四日の十勝岳爆発は忘れられない思い出である。
あの日は朝から雨が降っていた。農作業も出来なかったので、子供の頃から好きだった魚釣りに、陰の沢(清水沢)とも言っている今日の日新ダムのある沢に二人の弟と三人で八時半頃家を出た。
その頃は山の方はガスがかかって十勝岳は見えなかったが、鳴動はいつもよりひどかったので、父は「山が爆発するかも知れんぞ」と言っていたのを、言う事を開かずに出かけた。
大沢(私共はフラヌイ川本流を言う)に出て、今の藤山さんの前のところに橋があったが、そこを渡るときは川の水が灰色に濁って流れていた。予感がした訳でもなかったが「爆発したら橋が流されて家へ帰れないだろうなあ」などと冗談を言って渡ったが可成り水量が多く、見た事もない色だった。
父はいつも山が爆発したら水が出て、山津波になると言っていた。
四ツか、五ツの頃、宮城県の鳴子か鬼首か分からないが、母と湯治に行っていて爆発にあい、温泉が流されて人が死んだが、父の部屋は高いところにあったので難をまぬがれたと言っていた。祖母からは詳しく聞く機会がなく、五月二十四日の爆発で流されて死んだ。
私達が 山の鳴動を始めて聞いたのは、五月四日の日である。その日佐川団体の人は総員で道路普請に出ていた。お昼一寸過ぎだったか、突然十勝岳の方で雷の鳴る様な音が一ツ聞えた。みんな不思議だと思った様だったが、まだ爆発の事は考えもしなかった。
其の後、三日位後になってからは一日に何回も断続的に遠雷の様に鳴って、一週間も過ぎた頃には連続して夜も昼も聞える様になった。
噴煙には変りなかったが、音は次第に強くなり、今にも爆発するのではないかと思われた。二十日から、噴煙は白いが幾分高くなってきた様に見え、夜になると火口附近に赤いものが見える様になり、やがて火柱の様なものが見える様になったので「いよいよ爆発が近くなった」と、人々が噂をする様になった。
私達は九時半頃清水沢の及川三治さんの附近に着き、それから上流に向って釣り始め、十二時頃元の白井東北さんのところに、姉の嫁ぎ先の熊谷健治さんが通い作をしていたので、そこで昼飯を食べて午後から又釣り始めたが、その頃は何とも気味の悪い山鳴りだった。
地鳴りもする様になって来たので、恐ろしくなって家に帰り始めた。陰の沢の通学道路を高台に上り学校の上の中段の楢の木の辺に来たとき、下から片倉伊衛門さんが走って上って来た。「水が流れて来るから早く逃げろ」と言う間もなく、沢一杯にガスとも水ともつかぬものが一瞬の内に流れ過ぎた。片倉さんは「この山(ダムの石を取ったところ)を越すから細野の山に登れ」と言う。私も水だから越す様に見えた。
清水の沢に下ってから、細野の山の中腹を片倉さんは下手に、私達は清富の方に向って「水だ水だ」と言って逃げ、熊谷さんのところに下り「爆発で水が出て大沢が流れている」と言って、熊谷さんとすぐ滝の沢から大沢に帰って見たが、大沢一帯が跡形もなく、水はまだ滝の様に流れていた。
家のあった近くを、若しや家族の者が這い上っていないかと思って探したが、一人も助かっていなかった。
それから鹿の沢の高台に上ったら、高橋仁三郎さんや高橋長助さん達が素足で七、八人逃げてくるのに出合った。
藤山さんの沢を又大沢に下って見たが、もう暗くなって何も見えなかった。坂の中段で藤山さんが入殖当時居たこころに作業小屋として使っていた古い小屋があったので、そこに泊ることにした。
その頃はまだ水が物凄い音をたて、大きな石もゴトンゴトンと流れていた。
夜に入って細い月が出ていたが、雨上りの雲が晴れたり、かかったり、水の流れる音に混じって助けを呼ぶ声が聞える様な、淋しいとも何とも言い様のない思いがして眠れなかった。
夜が明けかかったので大沢に下って見た。久保木為栄さんの家が少し高いところだったので残っていたが、人は居なかった。後で分ったが、隣の家に行っていて流され、死んだという。菊地さんの家の一部が山手に押し流されていた。
ガスも晴れて沢も見える様になったが、その様子はとてもこの世のものとは思わぬ淋しい、せい惨なものだった。このとき、下流の方で狩野さん宅あたりに鶏の声が聞えた時は、何となく救われた様な気がした。
菊地仙治さんの家の下流二、三百米下ったところで、藤山さんの子供が一人、菜種畑に押し流されていた。初めて見る遺体であった。
そこから百米ぐらい下手に、藤山さんのお父さんが下半身を切断されながらも、なお上半身で子供一人を背負って死んでも離さないでいる姿は、何んとも言えぬ尊いものに思われた。
その頃は水も大分引けていたが、ドロドロの赤い水が流れていた。沢は一面泥と木で、浅い所も深い所も分らない状態だった。
学校のあったと思われる所から足探りに、浅い所堅い所を探して家に帰るべく、川を渡った。まだ泥水が胸まであった。流れた跡は、コンクリートを練った様にドロドロで、足の抜き差しも自由にならなかった。
両岸には大小の流木が山と積み重なり、くぼんだ所は深さも分らない。泥と木で埋まっている。流木の殆どは皮がはがれ、沢の中は硫黄臭いガスが漂っていた。
家に帰ったのは十時頃だったろうか、家族の者は兄第三人共死んだと思っていたと言う。勿論、もう二、三分帰るのが早かったら学校のところで流されて死んでいたかも知れぬ。それ以来、好きな魚釣りも孫と一緒に歩くまではプッツリと何十年も止めていた。
家に帰ったら熊谷菊次郎さん親娘が居た。流れた晩には、久保木為栄さんと伊藤広五郎さんが、市街地に行って帰りに泥流に合い、早く気づいて山に逃げ助かったので家に一晩泊ったが、朝早く出て行ったと言う。二人共、家族は全部流されて死んだ。
隣の伊藤八重治さん宅には、市街帰りの及川三治さんと、大沢の伊藤善夫さん、佐川庄七さんが、同じ目に遭って泊っていたし、佐川東一郎さん宅には佐川の本家と菅原寅衛門、狩野覚三郎さんが泊っていた。
佐々木留治さん佐々木忠次郎さん等は、佐藤繁夫さんの空家に泊っていた。暫らくそこにいたが行き先が定まって出て行き、本家と菅原、狩野、伊藤善夫、佐川庄七さん達は佐川団体に戻って来た。
親戚で死んだ人は、熊谷健治さん家族三人、菊次郎さん五人、佐川政治さん家族九人全滅、伊藤善夫さんが学校帰りの弟さん一人、本家佐川岩治さんが祖母と叔母と従弟の鶴蔵さんで三人、菅原さんの叔母等がそれぞれ流されて死んだ。
佐々木留治、佐々木忠次郎さん等は奇跡的に早く避難したとかで一人も死なず助かった。
爆発で馬を助けようとして流された人は日新だけでも三人いる。
従弟の鶴蔵さんと新井事務所にいた菊地仙治さんは、馬は逃げて助かったが、二人は死んでしまった。
清富の川村繁夫さんは、松本さんの馬を追っていて死んだという。
日新で一番戸数も多く、収穫も良かった部落が、目も当てられぬ惨状を呈し、あの日から毎日死体捜索に出た。一ケ月位も出たが、全然死体の上らぬ者もある。多くの死体は殆んど裸であった。流木や石と一緒に流されているのに、余り身体に傷がついていないのが不思議だった。
新井の沢で見つけた死体は、鹿の沢、牛舎の沢、片倉さんのところと喜多さんの所で、流木を積んで荼毘に付した。流木は硫黄がついていたので良く燃えた。
今では流れた場所は全く分らない様になったが、新井の沢で残った所はほんの一部分で、沢一杯殆ど削り取られ、羅災者の多くは二股御料に移転する様だった。
流れた時の状態から考えると、あの沢は過去何百年か或いは何千年か分らぬが、数回流れた事は確実である。流れて断崖になった所を見ると、断層になって白黒数層になった土があり、破石あり、中には六・七十糎の大木も埋まっている場所が所々にあった。(昭和五十五年十月川井さんが温泉のポーリングをしている所へ行ったときも、作業員の人が五回程流れた地層があると言っていた。)
後日感じた事だが、今の駅の裏あたりは私達の子供の頃は谷地で、葦が生え繁った湿地になっており、矢野さんや浦島さん達が水田を造るとき流木を掘り上げているのを見たが、何回も流れたものだろう。
私が高等科に通っていた頃、三重団体に入った基線の高田治郎吉爺さんが言っていたが、西の山を越すのに泥濘で固い処は一ケ所だけ、今の二線道路の踏切近くにしかなかった、と言っていた。アイヌ語のフラヌイの語原からも察しがつくようである。(フラヌイは「臭き湿地」とも言う)
古くには灰も降った事もあるだろう。鹿の沢の奥、元の町有地の高台や清富の大正山、御牧妙見の部落にかけ、金子農場の北の方に火山灰や軽石などがあった。
父が生前、「爆発すると山津波がある」と言っていたことを思い、先年(昭和十六年だったか)宮城県鳴子の沢で、私の母の実家が昔から行っている温泉が川渡の堪七湯と言う事を聞いていたので、湯治に行った時、堪七湯の庭に年月日は忘れたが洪水で流れたと言う記念碑が建っていたし、素人の目にもあの沢が流れた事があると感じて来た。
十勝岳は、どんな性質の山か私には分らないが、爆発して水が出たのか、火口に溜った水が決壊して流れたのか、又、溶岩で雪がとけて流れたのか知らぬが、今の望岳台の上の方の山が一つ無くなるだけへこんでしまっている。
流れる前までは、今の噴火口の近くまで青木が見えていたのに、二十五日の朝には、森林にポッカリと泥流の跡がついていた。
山の爆発の時間は色々と噂されているが、l一十四日午後四時前にも小噴火があったらしい。二十四日の朝、硫黄川が灰色に濁っていた事や、久保木、伊藤広五郎さん達が市街から帰る途中、川の水が極端に少なくなっていたとか言っていたし、二十三日夜か二十四日の朝あたりにも小噴火があったかも知れぬ。
二十四日の午前十一時頃には大爆発があり、平山鉱業所の現場から電話がかかって来たので、技手が一人登って行って遭難したと聞くから、十一時爆発説もうそではないらしい。午後四時のは一番大きく、望岳台の斜面を流し取り、フラヌイ川にも美瑛川にも流れ下ったと言う。
あの年の九月八日には、何の予知もなく大爆発があった。えん麦刈りのときであったが突然、大音響と共に数千米噴煙がたち昇り、こちらに降灰するかと思ったが風向きが変って十勝の方に倒れていった。
三十七年六月の大爆発には、前から火口あたりが赤く見えて其のうちに鳴動もするようになり、地震なども可成り強いのがあったので爆発のある事は地元の人は考えていた。若い時は山が好きで年に一度か二度は登ったものだが、三十七年六月の爆発後登った事が無いが、山は随分形が変ってしまった。
大正十五年の災害の時は、随分と救援に来てくれた。町内ばかりでなく、町外からも青年団、在郷軍人会など連日手伝っていた。遠くアメリカからも救恤援助の申出があった様だった。
日新の部落でも学校が流されてしまったので、早速復旧にかかった。青年団は、部落が流されたため三重団体の方は通れないので、西一線の山を越してマルイチ木工場から板を担いて運んだ。バラックだったので、柱や梁や桁などは流木を拾って堀立とした。
鰍の沢の入口に建てて、授業を始めたのが六月十二日だったと菊池先生が言っておられた。子供の事が心配だったので「学校が出来たのは何よりも嬉しかった」と今でも涙を浮かべて話して居る。
生徒の葬式にも出られなかったし、部落の人も忙がしかったので、六月二十四日に遭難児童と家族の為に自費で法要の供養をしたと言って居た。その時の位牌が学校に残っていたが、今は寿の家に安置されて居る。いつまでも爆発を追想し、部落協調の表徴として祀られて行くことだろう。
泥流の沢は、今では白樺の樹など三、四十糎にもなるものがあり、両岸の泥流のかかった所も境目が分らなくなり、災害の面影はなくなった。当時は災害地の復旧は不可能と言われたが、村長吉田貞次郎さんの燃ゆる愛郷の精神と、復興に対する意欲、そして、これを支援した道庁当局を始め全村挙げての先輩諸氏の努力には敬意と感謝の外はない。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一