郷土をさぐる会トップページ     第01号目次

老翁夜話

中央区 佐藤 敬太郎 (八十八才)

◇明治四十年の駅付近
私は宮威県から明治四十年五月、十五才の時に、畳製造を業としていた叔父、千葉源四郎を頼って移住して来た。
当時の駅附近は、今の日通の向い角に運送店の事務所と域ノ口氏の経営している飲食店があり、そこには上富良野名物の白玉餅を売っていた。十個で五銭だったと思う。
駅の向いには角材にした木材が山の様に積んであり、それ等の木村は、タマ橇に積み東中、日新、旭野方面から運搬されてきていた。
その頃の大通りは道が悪く、二十六号道路は、一色商店からのんきやの所を斜めに駅前に出て伊勢屋旅館の角を通り、マルイチさんの十字街に出たものです。
今の高橋商店の所は水が溜り、ゴミ捨場になっていました。
フクヤさんの所は建築の際、土台の下に地杭を打ち、それに筏を組んで上に玉石を入れ、地盤固めをして、家を建てたものです。家の前には板橋を架けて出入りしていました。そのため少し長雨が続くともう水が溜り、なかなか引かずに因っていたものです。
弁天街の附近は、昔ヌツカクシフラヌイ川が流れた跡だと思いますが、冬期間川底跡から砂利を取ったため、あちこちに凹地となって残り、役場(今の農協ガソリンスタンドの所)に行くには、この凹地の間を縫って近道をしたものです。
その頃、砂利採取賃は石油箱(一斗缶二ケ入る木箱)に一杯が一銭でした。これを手橇に積んで運び現金収入を得ていたようです。
◇上富良野神社と初代生出宮司について
明治三十五年山本一郎、河村善次郎、北原虎蔵、金子庫三さん等が相談し、富良野村の総鎮守として伊勢の皇太神宮より御分霊を拝授し、天照大神を奉祀して社殿を建てたが、約二年間は神職がきまっていなかった。
そこで、今の森川さんの付近にあった高畠さんの借家に住んでいた、生出柳治(今の宮司の祖父)さんにお願いしては、と言う事になった。
生出さんは宮城県桃生郡飯野川村の出身で代々神職の家に生れた人で信仰心が深く、自分の家に神様をお祭りして毎日拝んでおられた。
この方に神社を守護してもらうのが一番良いということになり、道庁で試験を受けることになりましたが、その出立に際して着て行く晴着が無く、わざわざ試験の為にと、生出の婆さんに作ってもらって着て行ったというエピソードもあります。
当時の境内付近は一面の原野で、雑草が生い繁っていました。雑草を刈り払いわざわざ宮城県から松の苗を取り寄せて植えた木が、七十余年の歳月を経て現在神社の森といわれる大木になっています。
◇上富良野橋(涙橋)の架橋について
道々ルベシベ線が村道の頃、市街地の行政区はマルイチ商店十字路から東西にわかれ、東区の区長は赤川倉一郎さん(西富区赤川昇さんの祖父)、西区の区長は私でした。
橋が出来ることにより、その地区が発展すると言うことで両区が対立し、東区の住民は現在地に、西区の住民は今の五丁目橋にと、双方相譲らず、再三会合をもち、やっと現在の位置に上富良野橋が架けられたものです。
◇亜麻工場
亜麻製品はその繊維の性質上、軍需資材として使用される面が多かったので軍備の拡張と縮少が直接亜麻事業の盛衰に大きな影響を与えたものです。
第一次欧州大戦前後は、製麻会社が乱立した時で上富良野にも二工場が進出しました。
その一つの東洋製線工場は、大正九年に停車場通りと北四丁目との中間で、フラノ川と大雄寺の間に工場と工場長住宅を建て、一般職員の住宅は今の農協駐車場の角から、渋江医院と鈴木忠衛門さんの住宅付近に建てられていました。
浸水場は専誠寺の所にエホロカンベツ川より引水して利用されたのです。操業後、十勝岳爆発の災害により閉鎖してしまいました。又もう一つの工場である日本麻糸工場は二十五号道路の次の通りの突き当りに事務所を、東ニ線道路沿いに倉庫を数棟建設しました。浸水場は三好豊氏の南側の凹地にヌッカクシフラヌイ川の水を利用して設置したが亜麻茎が腐らず、大正十年に操業開始をし、間もなく休業閉鎖になってしまった訳です。
◇剣道の発展普及
明治四十二年、樺戸監嶽の監守長をしていた女鹿一八と言う剣道の達人が、湯屋業を開いていたが、その傍剣道々場を開き(当時三共座と言う芝居小屋の舞台を使用)村内の若い者に剣道を教えた。私達も習いに行ったものです。
当時横山と言う背の高い男と、後藤さんと言う背の低い人で福島藩の出身でなかなかの使い手でした。
江花には村上兵馬と言う人がおり自称二刀流で、負けず嫌いで、強いと言うより、むしろ乱暴な人でした。くさり鎌、薙刀、鍋ふた等の権威者と称する人が、方々から試合にやって来たものです。
◇水道について
昔から市街地区は水に恵まれず、駅前、弁天街、警察所等には良い水の出る井戸がありました。しかし一般の人は水に苦労し、個々に濾桶を作り、砂と木炭を入れた桶に水をそそぎ、水を通すことで濾過されて出て来た水を飲料水として使っていたものです。
その永年の不自由さに、町の有志が相談し合って二十六号の長谷部さんの前の湧水を竹管で引水しましたが、鉄道線路を通すには、鉄道の許可が下りずに困っていました。
そこで夜間内緒で線路の下を鉄管を通したのがばれて、使用出来なくなり、市街地への通水を断念し青柳商店の前で放流していたのを、その附近の人達が、皆なで利用したものです。
昭和四十八年に町の水道の施設が完備する迄、市街の人達は飲料水に苦労したものです。当時のことを思うと隔世の感があります。
◇沿海州尼港の出稼ぎについて
大正中期、黒竜江(中ソ国境附近)の河口付近は砂金、毛皮、鮭鱒、木材等天与の資源の豊富な所で帝政ロシア時代の重罪者の流刑地として早くから栄えた所でありました。
日本からも多くの人達が出稼ぎに行っていた所であり、冬期間は結氷のために交通が途絶するけれども、春から秋にかけて、多くの人が入り込み、人口も二万人内外といわれておりました。
上富良野からも、山本一郎さん(初代山本木工場社長)が木材業を営み、又小松福太郎さんは飲食店を営んでいたとききました。
政府は在留邦人保護のため、領事館を置き、大隊長指揮の約四百名の軍隊を常駐させて、尼港の警備にあたっていました。
大正八年十二月に入り、パルチザンの横行甚しく殺伐たる空気がみなぎり、強盗、殺人等は日常茶飯事の出来事となって来ました。
段々治安が悪くなってきたので警備の増強を要請され、救援隊は三月上旬、小樽港より出発したが、冬期間のため、アムール河は結氷のままで、航行不能のため、やむなく小樽港に引返し待機していました。その間に起きたのが尼港事件であります。
事件の内容は、大正八年暮から大正九年五月までの間に、旧ロシア軍人が中心になり、これに無頼の徒がむらがり、強盗団(パルチザン)が組織されていました。
この一味によって、在留邦人約三百五十人位、守備隊約四百名の合計約七百数十名全員が、投獄、虐待惨殺され、又は自決に追いやられ、万斛の涙をのんだ一人一人が、吾が救援軍の来着を待ちつついたぶり殺されてしまったのでした。
これはひとり日本人だけでなく露人、支那人、朝鮮人等も区別がなく、彼等に殺された尼港市民は三千名にも及んだと聞かされ、痛恨の極みであります。
◇パルチザンとは
当時帝政ロシア政府が没落し新政権が出来たものの、未だ極東方面にはその威令が行なわれていなかった。
この時期に、旧ロシア系軍人や、敗残兵の不良分子などが合流して強盗団を組織し、その指揮官には元ロシア系のセミヨノフ軍の騎兵大尉がなって、極めて惨虐な行動をふるまっていた。
パルチザンは、その戦力拡大のために一村落を包囲して全村民を一ケ所に集め、その留守の間に家探しをし、金銀、財宝、食糧、武器弾薬、馬等を徴発し、集結した村民の中から軍役に従事させる男子をその場から強制徴発し、物資と共に引上げる戦術であったと言われている。
いささかでもこれに抗議するものは、その場で射殺されるので、仕方なく部隊に加わっていたようで尼港付近に移動して来た時には、一万人とも言われ日本軍が少数なことを知ると、再三の警告にも拘らず、次第に尼港市街に侵入し始め、惨殺、強盗、強姦等あらゆる暴行を始めたのである。
守備隊長もこの対策に連日苦心され、このまま放置すれば吾々日本人も、一般市民同様全滅することになる、二ケ中隊では守護し通すことは至難であると判断し、むしろ今のうちにパルチザンの兵舎や、幹部の宿舎を夜襲し、一挙に壊滅するより手段がないと決意して三月上旬夜襲の決行を計画したが、この戦闘計画が事前に敵方に察知されて失敗し、惨虐な事件となってしまった。
これは、用便に使用した紙から見破られたといわれている。彼等は排便後、尻をふかずに縄を張っておいて、これをまたいでこすりつけて終ると言われており、これらの習慣の違いから計画が発覚したものと思われる。
この事件を通じて、如何に無政府が恐ろしいものであるかを考え、万一、吾々が本国でこんな事が起ったらどうなるかと思うと、身の毛が立つ思いです。
今更日本国民の有難さ、幸福な民族であることを痛感しています。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一