郷土をさぐる会トップページ     第01号目次

石の大鳥居(古老の話から)

語る人  林  財二(七十八才)  佐藤  民(七十九才)

上富良野神社は、明治三十五年天照大神を奉祀したものをもって創祀とされ、当時は富良野神社と称し、富良野村総鎮守であった。
現在の上富良野神社と称されるようになったのは明治三十六年下富良野村以南が分村されてからである。
上富良野の発展に伴い、大正十二年八月七日内務省告示により村社に列せられ、社殿を神明造りに改築された。
神社社号標を見ると、敷地をはじめ大鳥居、大石燈髄、大石御手洗鉢、その他各施設の寄進者の名が刻まれている。
石材の大鳥居奉納経過について、古老の話を取りまとめ記述する。
上富良野は、市街地から東方の日の出、富原、旭野方面は岩石が多く、良質の石材が生産されていた。大正初期より石工が入村し、旭川、小樽方面の倉庫や海岸の護岸用として、毎年相当量の積出しがあった。当時、旭川から十五尺(約四・五米)の継物の鳥居にする石材の注文を受けて納めた実績もある。
石工佐藤辰之助(佐藤石材店主)は、山加の自己所有地内に有望な大型原石がある所から、上富良野神社の大鳥居建設を請け負った。石工伊沢覚太郎(旭川)、荒取工猪股広八、海原正一(山加在住)等と共に、山加の現場(現自衛隊演習場内)の台地から、長さ二十四尺(約七・三米)の安山岩を掘り出し、
現地で四角に削り救出することにした。
冬期間の雪を利用し、部落の優秀な馬を集め六頭曳で運び始めたところ、二台も馬橇を潰してしまったため、丸太で橇を作って運ぶことにした。
このようにして、現場から道路まで搬出するだけで、五日間の日数を要している。当時は石工も腕のたつ人がいて、どんな大きな石でも、その質を見分け、金矢を打ら込んで丸太を割る様に自由に長尺の石材を作った。
運搬は西口三太郎、木村保寿(山加在住)、佐藤卯之助(十人牧場在住)が中心となり、角に削った素材を積み、市街地の大通りを廻り、万歳を叫びながら気勢を上げて運んだ様子は、今なお、古老の語り草になっている。
境内で丸形に削って仕上げられ、管内一の石の大島居が吉田貞次郎氏揮毫の社標と共に奉納された。
直径一尺五寸(四十五糎)長さl一十四尺(七・三米)の継目なしの石村は、原石で二十五尺以上もあったと推定され、半世期前の掘り出した跡が大きな穴となって今も残っている。
機械力のなかった時代に、人力のみで運搬し建立された当時の人々の智恵と業績に、心から敬意を表したいと思う。
この鳥居は、社標と共に大正十五年八月一日建立された。社標側面に奉納者四十九人の氏名が刻まれている。
奉納者氏名 (イロハ順)
石垣善太郎、伊藤市次郎、一色仁三郎、伊藤七郎右衛門、西谷元右衛門
本郷徳助、細川蒸太郎、土井元次、十川茂八、岡田甚九郎、大角伊佐美
小川総七、和田柳松、若林助右衛門、川田金七、開口太三郎、片山善平
河村重次、川喜田幾久、吉田貞次郎、吉田吉之輔、高田次郎吉、高田利三
田村 勘、田村岩造、田村平太郎、高山熊次郎、田中栄三郎、立松平太郎
田中勝次郎、高士仁左衛門、浦島与一郎、野崎三次郎、久野春吉、山崎林松
山本一郎、安井新右衛門、松原照吉、福屋キヨ、小林八百蔵、佐々木喜太郎
佐藤辰之助、坂治三郎、岸人貞一、菊川政重、鹿間勘五郎、嶋田太一郎
篠原貞一郎、杉山芳太郎

石工  佐藤辰之助、伊沢覚太郎
鳶   山中由蔵

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一