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生涯を山の仕事に従事した父

及川 熊夫 (七十七才)

父及川 隆は、明治二十一年二月一日、宮城県登米郡赤津村に生まれ、家は代々百姓であった。
このあたりは土地が狭いために、長男以外は婿養子として他家へ出る習慣になっていた。二十才の時新天地を北海道で求めようと決意し、同郷の友人菅原政司氏夫妻、佐々木源之助氏夫妻と共に渡適して現在の南富良野町鹿越に落ち着いた。
百姓以外に何等技術もない父は、開拓の木材伐採に従事し、生活を支えていた。
明治四十二年、上富良野村に転居し、現在の西富区仲通り、杉山九市氏の借家に住み、その後、杉山氏の所有する東一線北二十六号で、現在横山政市氏の水田の処(小玉病院の東側角地)へ転居した。
その後当時この地帯は杉山氏のリンゴ園で、此処で子供八人が成長する。
明治四十三年から山本木工場の造材の仕事に就き帳場(責任者)として働いた。特に人夫の募集では相当な苦労があったようである。
大正七〜八年頃は、第一次大戦後の豆景気で、豌豆一俵売れば、米一俵と味噌一樽(三十キログラム)買っても尚おつりが来ると言う時代で、加えて冬働けば夏に身体が弱ると言って、農家は山働きに出る者が少なく、人夫集めは大変な仕事だったと言う。
大正十四年、市街地に転居した。その頃吹上温泉は中川三郎氏の経営で、湯治場や宿舎を造るのに、美瑛の丸谷温泉(十勝岳爆発で流失)に泊って、そこから山越しで通い作業が続けられた。三郎氏の兄は中川一介と言い、札幌控訴院検事長であった。
当時の旧噴火口(安政火口)の硫黄採取を中止し新噴火口(大正火口)で採取が始められ、駄鞍馬で美瑛まで搬出していた。
その頃、第七師団で療養所を建てるということで師団の幹部が湯源の調査に来村し、コーゴの沢と言われる翁の入口に居た、池部精練所の山に詳しい番人某が案内し、師団の幹部や東郷上川支庁長が、現在の爆発記念碑の周辺を踏査したが、遂に湯源がわからずこの話は立ち消えになった。フリコ沢の処に滝があり、上川支庁長の名をとり、「東郷の滝」と命名されたが、大正十五年の爆発で地形が変り、今は跡形もない。
最初、硫黄は美瑛に搬出されていたが、距離が遠く、地理的に上富良野へ運んだ万が鉄道に近いこともあって、硫黄の搬出と温泉通路を兼ねて、現在の九十九曲りの道路ができた。
道路を開削する下調査の時に同行したが、温泉から山加までの路線選定には、まる一日、暗くなるまでかかった。
硫黄の搬出は、木ぞりで山から引きずり下ろしたもので、青柳の婆さんや、庵本の爺さん、婆さんなども、若い時に運搬に従事した人達である。
今のガンビ坂の北側にある迂回道路に、「女坂」と言う名が残っているが、この道はガンビ坂より傾斜が緩やかなので、女の人が登った頃の名残りと言われている。
平山鉱業所で、硫黄搬出用鉄索が出来るまでは、駄鞍馬を使い、二臥を振分荷にして馬の背に乗せ、十頭位づつ、前の馬の尾に次の馬のモクシを連繋し毎日運んでいた。今では、これらの様子を知る人も少なく遠い昔の物語となって消えようとしている。
運搬責任者は旭川の伊藤某という人で、ダグラ伊藤とも言われていた。
その頃、斉藤寛治氏の息子と平山鉱山の人が熊に出会い、二人共座り込んでしまった。
しばらくして熊が去ったが、先の人が動こうとしない。再三声を掛けて、ようやく動き出した。腰が抜けて動けなかったのだと言う。
函館の大火の後で、函館警察署の建築材を、一里塚附近の国有林、第三十三杯班から払い下げを受けその伐採を、山本木工場の先代山本一郎氏が請負されたので、父が帳場として仕事をした。
菅原政司氏や渋佐杢太郎氏等と一緒で、佐々木源之助氏は薮出しの責任者として働き、食糧は山加から一里塚まで一俵づつ背負って運搬したという苦労話をよく聞かされた。
地理には詳しい方で、安政火口下流のヌッカクシフラヌイ川の三つの滝は、師が名前をつけたもので、「勝蔓の滝」、「維摩の滝」、「法華の滝」として残っている。
三段山登山通路の「荒稜の池」附近に、太子堂が造られたのも大正中期で、太子堂の材料は、翁地区の精練所工員宿舎を解体したものだと言う。
当時は江花の奥から、木炭を市街地まで運んで、一俵(三十キログラム)十三銭、薪が一敷(百本)八十銭の時代であった。
吹上温泉にラジオが初めて備え付けられた。ラジオが出来た最初の物で、拡声ラッパ付き大型で、A・Bの電池を使い、百五十円もしたと言う高級品でこの村にラジオが設置された最初のものと思われる。
十勝岳の大爆発で平山鉱業所が被災し、硫黄の採取が中止された。
中茶屋の奥の事務所や長屋は、そのまま営林署の造林飯場として活用され、昭和五年頃、現在の事務所が出来て、自家発電の設備もあった。
父や兄は営林署の造林責任者となり、仕事を請負い、主に旭野部落の人達が人夫となり、相当の農外収入を得ていた。
市街地で留守を守り、六男三女を養育した母は、昭和二十二年十二月、六十才で他界した。
父は町内会長や民生委員に選任されて、その職に就きながら、その後三男忠夫と同居して、旅行を唯一の楽しみに余生を送っていたが、昭和三十八年二月、七十七才の天寿を完うし、この世を去った。
父は渡道以来林業に従事し、十勝岳の造材、造林等山一筋に生き、これを天職として生涯を閉じたのである。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一