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稲村 覚先生と東中

上田 美一

私が小学校の三年生になった四月のある日、突然二年間お世話になった赤井校長先生が他校に行かれて、新しく稲村先生がおいでになられました。それから大正六年四月剣渕小学校長として御栄転なさるまでの八年間、学校教育のため、また、部落住民指導のため体を張っての御努力の跡を記憶と記録をたよりに探って見ることとしました。
先生は新潟県の御出身で、前任地は旭川であったと聞いております。何故に東中の学校長として任命されたというと次のような理由があったのです。
それは、東中地域が開拓のために区画が出来たのが明治二十九年で、開拓民の入地したのは明治三十年に田中米八氏と有塚利平氏が入地したのをはじめとし、其の後は各府県の人が入り国衆的な集団意誠が強く現われ、加うるに開墾生活の苦しさから、住民の気持がすさみ、出身地を同じくする人々の集団的な形が生れて、陰に陽に行動をともにするという動きがあったのです。その動さが明治三十七年に創立された学校にも波及していたのです。
事の起りは、「俺の国衆の首席は出来物なので、今の校長先生をどこぞの学校に行って貰い首席先生を校長にしたい」という人達と(首席派)、それには反対という校長派ができ、部落民が二派に分かれて相争い、強硬な首席派は校長先生が在任中は子供を入学させないと、学令を過ぎた子供を二人も家で遊ばせておくという頑固な人もあり、生徒が登校して授業中に、雨の中に屋外で印絆天を着て部落民と校長が争う姿を見るような有様で、部落は何か殺気立っていたさなかに、人物を見込まれた稲村先生が着任されたわけです。
稲村先生が着任されてまだ事務の引継ぎを受けていない時に、首席派と思われる人々が来校して「首席先生のために送別会を開きたいと準備をしたが会場が無いので教室を借りたいと申し入れたが、校長派と思われる或る教員は『学校が酒のにおいがしみて臭くなる』と断わられたので校長先生にお願いに来た」といわれ、私は引継ぎは終っていなかったが即座に使用を許可した、と先生の回想録に書かれています。
先生はともすればすさみ勝ちな住民感情の中で児童の教育に専念されるとともに、なんとか平和な部落づくりを志されたのですが、当時は開拓が始められてから日なお浅く、村の行政機関としての部落長制度はありましたが、末端の組織はばらばらで、国衆同志の集りと若手組合が出来ていたようですが、ない地域も相当あったようで、東中地域的な大きな運動は十数人の先覚者によって行なわれており、青年の組織としては小学校卒業生の同窓会、住友与平氏を中心とした東中富良野青年会と、奥田亀蔵氏を中心とした倍本青年会と三つの青年組織があったのです。
先生は何とかこれを一つにまとめて、青年を部落改革の核としての役割を期待して青年の活動の為には地域住民の理解と協力が必要なので部落有志の万々を説得し、協力を求め自ら筆をとり、東中庄民会規約の案をつくり全部落民の同意を得て大正二年二月、東中住民会が組織されその住民会規約には学校卒業の男子を青年会に入会させる事を義務づけられており、したがって今まであった三つの青年会も解散して新しく東中富良野青年会として発足し、先生は自ら会長として指導に当られ、特に夜学は十一月二十日から三月十日まで、日曜日を除くほかは午後六時より九時まで青年を指導されたのです。冬の寒い夜道を通うそのことが若い者達には知らず知らずのうちに心身が鍛錬され、国家社会に有用の人材を多数送り出す事が出来たのではないかと思います。
住民会の設立に際し多くの有志の方々が参画して居られたようで特にお骨折りをいただいた方々は次のような方々です。
田中亀八、住友与平、西谷元右衛門、尾崎政吉、堀田常次郎、奥田亀蔵、西谷仲次郎、森日喜之八、八木春吉、小橋彦七の諸氏の記録が残されております。
開拓八十有余年で土地は肥沃で、人情の美しい理想の郷、東中が築かれたのです。これみな先輩の努力の賜であり、特に学校長の身分で部落建設の指導に努力された御功績は郷土開拓の史料として後世に伝えられることでしょう。
回想録より
大正の初期の頃、或る日中富良野駐在所のお巡りさん某氏が東中小学校に来て稲村先生に会い度いというので、会って用件を尋ねると、お巡りさんいわく「東中地方に、ばくちが住民の間で行なわれて居る事、もぐりの歯医者が違反行為をして居るとの評判が高いので取調べるため」というので先生は「今日のところは私にお任せ頂きたい、今後はきっとお世話かけないように注意をする事を約束します」と帰ってもらったと記されております。
余話
学校が七線の十八号にあった頃、敷地に楓の老木があり、春が来ると甘い樹液が出るので、ある年の三月の初めに二、三人の生徒が鑑で樹皮を削り、翌朝行くと甘い樹液がつららとなって下っている所を先生に見つけられて、立たされたり、お説教を聞かされたが、そのおかげで樹木の大切なことを知り、今は広大な森林を経営し悠々と老後の生活を楽しんでいる者もあります。
東中開基八十周年に際し感謝状贈呈に対しての礼状(先生の御息女より)
朝夕肌寒さを感じて参りました。先般は何かと御多忙のところ御遠方からわざわざお越し下さいまして恐縮いたしました。御地で立派な開基八十年記念式典を催されまして、ほんとうにお目出度ございます。さぞや皆様にはお疲れでした事、又重責を果されまして、どのようにか心安らかになられました事をおよろこび申し上げます。なき父にまで記念誌、感謝状そして見事な岩鷹の記念品等を戴き、重いお品を御持参下さいましてまことに恐縮に存じております。頂いてよいものでしょうかと思いましたが遠慮なく頂戴させてもらいました。直ちに仏間に飾り皆様の御心の程を伝えました。仏となりました父には、さだめし皆様の御心を感謝感激して居ります事と仏と共に厚く御礼を申し上げる次第です。子々孫々まで末長く鷹にあやかりますよう祈るものでございます。記念誌ゆっくり読ませてもらいましたが東中にお世話になりました時代を子供であった私も記憶をたどりながら亡き父と共に皆々様の御苦労をしみじみしのばせて頂くのであります。毎朝お参りする度に、この岩鷹が父のような心地して懐かしくあれやこれやをしのび乍ら、短い余生を感謝して参ろうと存じます。御礼心で一杯なのですが拙ない私にはお礼の言の葉さえわかりません、幾重にも深謝を申し上げる次第です。
◎ 式典のおよろこびを
      長年のみなみな様の御苦労が
            満ちて式典挙げられるとは
◎ 八日朝感謝笑顔の父の夢を見て
      山石鷹が東中より舞いおりて
            笑顔を見せる夢姿かな
◎ 右の歌につれて
      一入になつかしまれて涙あり
            教えの庭に捧げし父を

昭和五十四年九月八日
                      清水 静江
                貿易商   住友 正雄
                代議士   稲村 隆一
                参議院議員 石川 清一

以上の方々は先生の教え子の一部です。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一