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開拓と暖房

岩崎 与一

北海道のような寒冷地帯では、暖房用燃料は一日も欠かす事の出来ない必需品である。
当地に開拓が始まってから、既に八十有余年を経過し、今では開拓当時を良く知る人は、ほとんど生存していない。
当時東中地域は農場として国から貸付けを受け、小作人を各地から募集して開拓が進められた。小作人も住みやすい地域を求めて移動の激しい時期でもあったので、団体として入地した地域のように、開拓当時から今日まで住居を定めている人は、全くまれにしか現存していない。ほとんどの住人は、明治の後期から大正時代に入植した、いわゆる個人入殖地域である。
また、現在の農業経営者は既に三代目、四代目に受け継がれつつあるため、開拓当時、造材に携わっておられた方の子孫や、古老の談話、言い伝え、体験、文献等を参考に考察してみた。
まず、政府から貸し下げを受けた農場主は、開墾地の八割以上の耕地を三、四年間で仕上げ、成功検査を受けなければならないように義務づけられていた。その検査に合格しなければ国に引き上げられる制度になっていたために、農場主は自分の身内の者や、国元や、道内の先進開拓地から、小作人を募集してきたのである。また、農場主は、拓殖銀行から開拓資金を借りて小作人に一年間の食糧を準備し、開墾に必要な道具等も調達したのであった。また、小作人は、荒山の川のほとりに住居を定めたのである。これは、水と食糧は、人間にとっての生命であるからである。以上のような地域に「拝み小屋」や、「堀立て小屋」と言う草屋根、草囲いの小屋を建てて、中央の土間に巾四尺余り、入口から奥行九尺余りの大きな囲炉裏と称する火を焚く場所を設定し、ここに火を焚き、暖を取り、煮物や乾物にも利用したことから生活が始まった。開拓の当時は、火を起こす為に、内地から持参した火打石を使っていた。当地では、神楽村か、旭川まで行かないとマッチが買えなかったと聞く。
火打石の無い家庭で火が消えてしまった場合には大変困ったようだ。この様な時は、遠い隣まで火の種を分けて貰いに行き、棒の先に白樺の皮(通称ガンビ)を巻きつけ、それに火をつけたり、箱の中に灰を入れて、中に炭火を埋めたりして、火種を運んで来たという状況であったので、火種は日常生活に大変大切なものであった。
家の中での囲炉裏は、毎日の生活の中でまことに重要な役割をしていた。
食物の煮炊さや、暖房は勿論のこと、馬鈴薯や人参、かぼちゃ類を熱い灰の申に入れ、焼いて食べた味は、今も忘れることができない。また、春先の鰊漁の最盛期には、大きな鰊を串刺しにして焚火にかざし、油のしたたるのを家族揃って食べたことなどは、今も懐しく思い出される。
囲炉裏の焚火の上に自在鈎を吊り下げて、鍋や鉄瓶を吊って使用したのが、この時代の開拓者家族にとって最高に便利なものであったと思われる。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一