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島津農場のあゆみ

海江田 武信

北半球に位置し、日本列島の北端にある北海道は、古い歴史をもつ日本の中でも最後に開発された地域であることは、海をへだて、寒い気候の関係上から当然後回しになったことは、やむを得なかったことと思います。
領土的な脚光をあびて来たのは、徳川幕府の松前蒲の時代からであり、道南には二百余年前からの記録がある様です。
本格的な開発は明治四年、明治新政府により開拓使が置かれてからであります。百十年位となりますか、今や札幌は百万都市となりました。
アメリカの独立記念日は、今年の七月四日ですが、独立してから二百五年となります。そのアメリカ人が北海道開発の現状を見て、「百年そこそこで、よくもこれまでに開発されたものだ」と、驚きの目を見張ったと聞かされて居ます。
勿論、近代の料学文化の急速な進展によるものでありますが、良くこれを取入れた先輩諸氏の努刀の結果と、深く敬意を表するものであります。
開拓使としては、先進国アメリカより農業技術の学者を招き、教育に刀を注ぎ、農事試験場を作り、農業機械の導入、品種の改良、家畜の導入と新しい農業が始められたのです。
然し、開拓当初入植された農民の人々は、あまりにも気候風土のへだたりが大き過ぎ、半年の間雪に被われた農地、冬期間の雪の中の伐木作業等に耐え切れず、思う様に開拓は進みませんでした。
制度上の欠陥もあり、現代の様な長期資金の制度もなく、貸下げを受けた土地も、一定の年限に開墾を終らなければ、その土地は、政府が取り上げる罰則となっていた様な時代でありました。
そこで、政府は国防上の見地から、又住民の安心感を与える方法として屯田兵制度を取り入れ、明治八年五月、現在札幌市となっている琴似屯田を皮切りに、明治三十二年、最後の士別屯田までに江別、野幌、滝川、根室、輪西、野付牛(北見市)深川、永山、東旭川、当麻、湧別、士別、等三十七ケ村の屯田兵村を設置し、七千三百三十一戸を入植させました。
屯田兵制度は、徴兵制度の中の屯田兵であるので本務は兵士であり、又開拓農業が義務づけられており、戸主は毎日所定の演習があり、命令によって行動する農夫であったのです。
一定の農耕地と住宅、農業用の農具一式、生活用品等、日常生活は家族全員が保証され、食糧としては大人一人当り玄米五合、塩菜料一人前一銭八厘の割で、毎日支給される期間は三ケ年(現役期間)保証され、この間に、畑からの収穫物によって自活出来る様な仕組であったと、聞いております。子供は大人の半額であったので、生活が保証された期間でありました。
この制度によって、道内各方面に定着させられた屯田兵により、他の移民開拓者の民心を安定させる大きな刀となり、本道開拓の基礎的な役割を果したと言えると思います。
日清戦争の時には、この屯田兵も予備、後備兵として召集を受け、旭川の七師団に配属されて、出征しております。
札幌方面、空知、道南方面は早く開けましたが、わが「かみふらの」の入植の始まったのは明治三十年でありまして、草分の三重団体は、富良野盆地の開拓の先駆者であります。
富良野盆地は北海道の中心であり、地勢上と交通不便のハンディがあり、入殖が取り残されていたわけで、調査に入られた草分の先駆者が石狩川、或いは空知川沿いに、徒歩で調査された苦労と決意に対しては、頭の下がる思いでいっぱいです。その人は田中常次郎氏を代表とする三重団体の方々です。
当時、団体移民に対する国の助成は、土地の配分と旅費の一部助成があった位で、現在の様な補助、或は資金の融資等は全く無く、明日からの生活は総て自力であったのです。
そして、苦労の積み重ねにより、現在の上富良野町が生れましたが、今年はらようど八十四年になります。町制を敷いてからも、三十年になりました。また、自衛隊が駐屯してからも、二十六年を過ぎております。
この間に、本道としては他に例の無い、十勝岳の大爆発による大惨事が突然起り、三重団体を中心に富良野川沿いに、三十年の労苦により主流に開拓された田畑数百町歩が、数時間のうちに泥土に被われて、泥の海と化したのは、大正十五年五月二十四日の午後の事です。尊い人命、百四十四名も失った大惨事でありました。
この惨事により、泥と流木に埋った土地を復興するか、放棄するかは、当時の大問題となりましたが関係住民の団結と土地に対する愛着心の決意により次年度から、専門家の指導と、入植当時と同じ苦労を覚悟の上で復興に取り組み、数年にして見事に復興を成し遂げました。
これも郷土愛から生れた貴い事業だと思います。
「何事も為せば成る」と云う言葉がありますが、人間は、強い意志をやり通す事によって、何事も不可能という事はない。日本人は大きな事がある毎に強くなる。大和民族は底力のある人種だと思います。
草分部落が入植時に経験した苦労の事柄は、関係部落の万々が、当時の思い出を書いておられると思いますので、私は島津農場の関係者として書いてみる事と致します。
明治八年五月、日露間に於て千島と樺太との交換問題が起り、周囲を山に囲まれた四ツの島日本も、世界の国から、いろいろな祝点で見られる様になりロシアの南進、不凍港の獲得を目標に手を伸し始めやがて日活戦争が始まり、支那を支配下に置こうとする日本に対して、欧州各国の圧刀が次第に露骨になって、きました。
残が国の北端北海道は、手薄な第一線という状況におかれ、本道の開発の為に必要な人口の増加によって充実を図ることが国の方針として強まり、防衛と開拓の両面を持った屯田兵制度により、本道各方面に駐屯せしめ、民心の安定を計るとともに、なお一層強化する為、明治大帝の御内意と聞いておりますが、元の大大名、華族の資刀のある者が、本道開拓に着手する事になって、徳川(八雲)、池田(十勝の池田)、蜂須賀(雨竜)、松平(東鷹栖)、前田(軽川《手稲町》)、島津(長沼、上富良野、外二力村)と農場の開発にそれぞれ着手することになりました。
私の父は、明治十八年七月、野幌屯田兵として二十一才の時に、家族五名を連れて入植した屯田兵で私はその二世となるわけです。
屯田兵も三ケ年の現役、四ケ年の予備役、その後は後備役となり、その間進級もありました。
父は明治l一十四年に曹長となり、選ばれて札幌農学校(現在の北大)に兵事科別科生として入学を命ぜられ、農学の大意を勉強し、翌二十五年三月は少尉に任官し、兵村に帰ることになりましたが、習得した技術を生かす為、軽川(現在の手稲町)にあった前田農場に支配人として勤務し、開拓に従事することになりました。私は明治三十年六月に前田農場で生まれ、今年でちょうど八十四年、三重団体と同年生まれとなるわけです。
ちょうどその頃、旧藩主島津家に於いても、北海道に農場を開拓する事と成り、北星社(栃木県人矢板武氏の権利の農場予定地)の権利を譲渡して貰い、明治三十一年四月、野幌屯田の中隊長吉田清憲(後で島津農場総支配人となった鹿児島県人)北海道炭鉱汽船会社社長園田実徳氏(鹿児島県人)等の命により、前記北星社の農場予定地四ケ所(上富良野、長沼、浦幌、ノヤウシ)の調査が始められることになりました。
四ケ所で合計二千町歩。まず、長沼は札幌から馬車で一日行程、上富良野は旭川から十里位、鉄道の工事も始まっておりましたが、十勝のl一ケ所は、室蘭より船で十勝の広尾港に上陸し、十勝川口の大津までは、徒歩、あとは十勝川を丸木船で帯広まで行き、浦幌、ノヤウシの調査をしました。
先任者の意見等を聞くと、まず気候は不順であり夏は濃霧が発生し、交通も不便であることを考えると、十勝に投資するより、長沼、富良野方面に増地してでも、十勝の二ケ所は開拓を中止すべきであるとの結論が出されました。調査の結果、明治三十一年七月に最終決定され、さっそく長沼、富良野開拓準備に取りかかることになりました。
父は長沼、上富良野とかけもちで、明治三十二年四月十二日、長沼方面より募集した小作人二十五戸を入植させたのが島津農場の始まりで三十三年度も二十五戸の入植を見、開拓が進められました。富良野盆地は開拓当初は、空知郡歌志内村に戸長役場があったので、上富、中富、下富、南富が空知郡となっているのです。
出生届け一枚でも、歌志内役場まで届け出なければならなかった時もあったと言う事は、歴史の一コマとは言え、不便であったと思います。
明治三十三年度も、三月に二十五戸の小作者が入植し開墾を続けましたが、二ケ年とも天候不順のため凶作となり、十二月には、それまで五十戸入作していた小作人も退場する者が多く、十一戸を残すのみという状況になってしまいました。
せっかく開拓した農地も荒廃してしまう為、明治三十四年度からは、起業方法を牧草畑として開墾し生産した牧草は、第七師団の軍馬用飼料として納入する事になりました。
三十五年には直営で百町歩の牧草畑を作り、三十六年には札幌の興農園より、米国のジョン・ディヤー会社製のヘイモーア、ヘイテッダー、ヘイレーキ各二口を直輸入し、その組立てには外人技師が三人も来場しましたが、その作業を物珍らしく見ていた記憶が思い出されます。
その時にヘイフォーク、マニュアホーク、手刈用のサイズ、除草用のホー等も輸入されました。これが「かみふらの」として大型農業機械導入の始まりであると思います。
明治三十七、八年の日露戦争の頃は、開拓のめどもつき、小作者も落ち着いて来まして、生産も上り日常生活も向上して来ました。私も小学校の一〜二年生の頃ですから、戦時中のため父も出征しており連戦連勝の報に胸を躍らせた記憶があります。
島津農場が他の農場と変っている点は、小作契約書の取りかわしは一切せず、証人立会の上、三つの口約をするだけでした。それは、
一つ、国法を犯さざる事
一つ、組内の平和を乱さざる事
一つ、小作料を納める事
以上、三つの内一つでも犯した場合は退場を命ずる、と言う口約で一貰しており、この約束にふれて退場を命ぜられた者は、一人もおりませんでした。徳義を重んずる事を第一に取り上げ、お互いの人格を尊重し、人間味のある取り決めだったと思います。
それと自治制を取り入れ、農場を方面別に組を作り、組長はお互いに選挙によって組長を定め、組内の事柄は組長が決定して、支配人に報告する仕組になっておりました。
組長の慰労は、支配人の方で行う事になっておりました。
農場も、開拓以来三十八年を経過した昭和十二年当時の資金制度が自作農創設資金を導入し、全地域五百ヘクタールの開放を受け、自作農家となった次第です。
その事は、地主側としては本道の開拓が目的であり、「大体の目的を達した今日、小作者が地主となる事が、より以上幸福となるのであれば、地主は財産として維持する考えは無いので開放致しましょう。払下げ価格も要求はせず、評価は一切村長に一任する」と言う寛大なる気持で、小作者も地主もお互いに目的を達したと言う、喜びに満ちた自作農創設でありました。
二十四ケ年の長期資金でありましたが、従来の小作料を納めたつもりで資金を積み立て、七ケ年で繰上げ償還が出来た事も、小作者一同の団結の力であったと喜んでおります。
開放後四十四年を経過しました。農場の位置は、市街地を取り巻いた形で神社東側の中学校敷地、町役場、町立病院、老人センター、福祉センター、町立保育所、島津公園、大雄寺等も農場用地でありました。東二線も北二十号まで、自衛隊キャンプ、東一線、基線も西一線の山の手も北二十号までが農場用地でありました。鉄道、川もフラノ川、ヌッカクシフラヌイ川が農場内を南に向って流れ、交通の便、水利の便等恵まれた地形の農場であったと思います。
農村地域の過疎化が進んでいる時勢の中で、さほど人口の減を見ず、かえって市街地域の発展と人口の増を見る事は、他町村と変った存在と言えると思います。
このことは、将来に大きな希望の持てる町と言えましょう。開拓の歴史を振り返り、先人の労苦を偲び、将来の発展を祈念する次第であります。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一