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青年会の思い出

和田 松ヱ門

私が青年会に入会したのは大正九年一月三日、日の出青年会の新年総会の日だった。
まだ高等二年の生徒で三月に卒業なのに、一年一回の総会ということで、田中栄三郎さんに無理矢理誘われて出席したのである。
三月二十日に卒業して四月の例会には、二組の班長を押付けられた。
その頃青年会員は尋常小学校を卒業すると義務的に入会させられ、退会は三十才で男子青年のみだった。
数え十六才の私は一遍に大人の仲間入りをしたようなものだった。
毎月十五日例会は夜だったので、日の出青年会の名を書いた弓張提灯を片手に、みんなと雑談をしながら夜十二時頃歩いて帰った。
日の出青年倶楽部は西一線北二十七号(今の菊地健蔵さんの土地)に建って居たが、大正十五年十勝岳爆発の時流矢してしまった。
入会した年の四月に役場が新築落成し、一級町村になった。
役場の横(今の部長派出所)が広い空地になって居て、この広場で上富良野連合青年会の発会式があった。連合青年会長は村長の吉田貞次郎さんだった。
当日の夜一級町村昇格と庁舎新築の祝賀提灯行列が、役場前を出発してマルイチ呉服店角を曲って島津農場の神社まで行われ、連合青年会全員が参加したのである。
当時の青年会には制服というものがなく、乗馬ズボンの上に木綿縞の半纏を着て六尺帯を締めて鳥打帽子といういで立ちであった。
青年会は青年同志の社交的結合であり、修養と娯楽、社会奉仕や部落の治安が目標で事業が行われた。
例会の日には時々会費二十銭を出して茶話会をやった。当番が吉田商店へ(今の農協事務所の処)駄菓子を買いに行って来て、談笑しながら夜を更かしたものだった。それが唯一の楽しみであった。
又例会には二十銭以上の規約貯金を励行、会計が集金して産業組合に個人名義で貯金をした。
修養の面では剣道、銃剣術、秋には収穫後の畑を借りて運動会などをした。夜学会は中央、島津、富原と合同して上富良野小学校や、役場の二階応接室を会場として実施した。課目は修身、国語、町村制、音楽、農業で商業は中央青年のみで五課目を一月二十日から、五十日間三月十日頃で終った。
又富原青年会と共同で「黎明」という同人誌を謄写刷りで発刊して、会員に配布した。
事業はもっぱら社会奉仕的なものが多く、道路の要所に指導標を建てたり、十勝岳登山案内図を駅前に建てたり、小学校の屋根の雪降ろしをした。事業資金を得るため、畑を借りて共同耕作をしたり、小学校のストーブ薪切り、薪運搬、道路の砂利運撒などをやったものだ。
十勝岳爆発で、集会所である倶楽部を流失したが、翌年七月に東一線北二十六号の高田多三郎さんの土地(今のもとまち公園)三反歩を買受け建築した。
土地代は基本財産であった山林二町一反五畝を売却し、建物は義捐金一千二十余円を得たので、それを基にして建築することが出来た。会館は三十二坪の納屋を二百円で買って、二十四坪を増築して五十六坪の当時としては立派なものだった。
日の出青年倶楽部が建設されてから、青年会活動は活発化した。
毎月の例会には、会員に青年カードを配布して輪読会をやったり、雑誌「青年」を各班(六班あった)に一冊づつ回覧をした。
また、早天神前修養会を毎月一日上富良野神社前で行い、一夜講習会なども開催した。
指導者養成を積極的に、幹部を郡や道の幹部講習会に出席せしめ、例会には歌唱や舞踊などをみんなで楽しんだ。
又弁論会なども盛んで、他の青年会に参加したものだった。
その頃連合青年会の陸上競技大会も盛んであったが、結局中央と東中青年の争いで、他の青年会は三・四位争いの競技会であった。
昭和の初めに青年会の名称が青年団に変り、村の青年会も連合青年団となった。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一