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足跡を振り返って

語る人 大垣 三右衛門 (八十二才)

小さい頃

私は岩手県西岩井郡いいじま村で生まれました。
父は屯田兵で明治三十五年単身渡道し、美瑛町美馬牛の神社前に落ち着き、開拓の仕事に従事し、宅地二戸分を道から払い下げを受けました。
私共四人、母と兄二人は明治三十八年三月二十七日父の元に落ち着きました。当時私は六才でした。
父は、開拓の他炭焼、山仕事等をしていましたが明治四十一年、四十五才で死亡いたしました。
大正三年、十六才の春、津郷農場に転居、今の泉さんの近くで池のあった処、菅野忠夫さんの隣りでした。菅野さんの本家は忠五郎さんと云いました。
小作としての開拓の仕事も、人手だけなので広い面積も拓けず、作物も食べるものが主でした。
十年ほど経つうちに年々畑も広くなり、生産したものも売れるようになり美瑛村や上富良野村の業者に売りましたが、私は親まかせで金を扱ったことはありません。
最初は稲きびを播き、麦類も取れるようになりましたが、不作で食糧も充分取れない時は、笹の実を取って臼で摺り、何年も食べました。
十一才の時初めて美馬牛の小学校に入学しましたが、子守りや畑仕事を手伝わされ、一ケ月の内二〜三日しか通学しない時もあり、二十日間も通学したのはわずか数ケ月でした。五年生まで行ったことになりますが、実際はろくに行かなかったような状態です。卒業証書は一応もらいましたが、今ではどこにあるのかわかりません。
家内は六年生まで行ったようです。私は学校に行くようになってからも子守りや仕事を手伝いました。
炭焼きは九才の頃から手伝わされました。
当時、美馬牛の神社附近には鹿の角が沢山落ちていて落葉の下等から相当出たものです。
木の種類はなら、いたや、はんの木等で松等もかなりありました。茸も松茸等が沢山取れました、真黒な木があると思ったら、まい茸がびっしり生えていて二十キログラム余りも取れました。
当時は美瑛に出るにも上富良野に出るにも、二日がかりで用を足したものです。
美馬牛の家の隣りにタコ部屋が出来、七、八人に一人棒頭がつくのです、一メートル位のいたやの棒を持って、それをステッキ代りにして頭をバンパン叩くと頭から血が流れる、それを相棒がタオルで巻いてやり、仕事を続けるのです。死ぬまで仕事をさせられていました。
真面目な者に山一つ越えた飯場から弁当を運ばせるのですが、仕事がつらいので山伝いに逃げると、それを皆で取り巻き、捕え宿舎で梁に吊し、下から松葉をたいていぶすという制裁を加えるのです。母がやめてくれ、やめてくれと何回止めに入ったかわかりません。
半殺しにして袋に詰めさせ、生きた人間を凹地に入れ、上からどんどん土をかぶせるのです。
美馬牛駅を通過して沢がありますが、あそこにはどれだけ埋められているかわかりません。私が山にいる頃毎晩火の玉が出たものです。
明治四十三年、私が十二才の時自転車を初めて見ました。津郷農場主の津郷三郎さんが国道を乗って来たのです。二輪車に人間が乗っているのは不思議だと言って、先生が先頭に立って生徒を道路の上まで連れてゆき、見学させたものです。

青年期

私が二十三才(大正十年)の時、冬は造材の仕事に出ましたがその時は滝川の百万坪という現場で、旭川の糸屋銀行の関係する木工場の造材の仕事と言うので、津郷から私共八人(菅野善作さん外)が前渡金を二十円から三十円だったと思いますが貰って現地に行きました。
飯場に入ると棒頭が部屋の隅々にいて、夜は錠が掛けられ、外出できないようになっていました。作業も冬山では出来ない様な木で、丁度唐かさと一緒で根元を切っても木は倒れないので、枝を一本づつ払って倒すのです。糸屋銀行とは真赤なうそで土方部屋だったのです。
大変な処に来てしまったと思いました。組合長の菅野善作さんも一緒でした。一度飯場に入ったら帰れないと言う有様でした。旭川、上富良野、滝川から人夫が集って四十人余り働いて居ました。
相手は皆武器を持っているので無事に帰るには八人が団結して力を合わせるだけでした。
事務所に酒をくれと交渉すると、酒なんかお前らにやれるかと言うので、相手がそうならこちらも片っぱしから叩き殺すぞ、と言って刃広を振り上げましたが、ひどい目にあいました。十二月六日と記憶しています。
山の作業現場に行くには滝川で休んで、中間にある駅逓で休んで又奥に行き、学校に一晩泊って、三日目にやっと現場に着く。何処に出るにも二人が組になって行動したのです。道具も背負子に入れないで、出る時は刃広をかついで歩いたものです。覚えている人が中に入っていた為と、八人が団結したから帰れたんですね。
前渡金も私は貰いましたが、貰わなかった人もいたようです。
当時山子を美馬牛、北見、落合と八年ほどやりましたが、主に枕木でした。枕木の寸法は国内向けは厚さ四寸六分、巾六寸八分、長さ七尺、外国向けが良さ八尺でした。
あの頃の出面賃は、三十五銭から四十銭でした。ある日友達が家に帰ったのでその道具で削ってみたら、一日十丁取れました。その時の出面が二十六銭だから倍になるので、出面をやめ山子に切り変えたのです。
水上造材に行った時、規格の正四寸なければ検査に受からないという厳しいものでありました。津郷農場に行ってからも山子をやりました、胴割りと言って全部木挽き鋸でひきました。
落合のトマムにも年間を通してではありませんが毎年仕事に行きました。背丈より深い笹ばかりの中で、熊が冬の食べ物として、腐った松の大木に巣食っていた蟻の巣を体じゅうに塗り、冬眠中の餌にしたらしい跡が何ケ所もありました。
トマムの木材の流送を見ましたが、勇壮なものです。深い沢を三寸か四寸もある板でせき止め、一ケの鎖をはずすとドウッと流れる仕組みになっているのです。
それからエンジュの木で冬、かんじきを作ったものです。木は桑の木が最高で、馬橇も桑、エンジュが用いられました。スキーもオンコで作りました。これらは仕事を休んで作ったものです。
大正十二年、私が二十五才の時上富良野市街地に出て六町内に住みました。今の佐藤電気商会のあたりに佐藤さんという魚屋があり、そこで売子をやりました。家内は針仕事をやりました。二十五キログラムはどの魚を天秤でかつぎ毎日美馬牛まで行商しました。
三年後に十勝岳が爆発し、道路がつくまでは、毎日一本橋を渡りました。吉田さんの居た附近まで一枚板の仮橋でしたから、天秤をかついでいるとふらついて落ちそうになるのでした。
阿部家具店の向いの堀内さんの事務所のところに「カギに丸の田(屋号)」いう酒屋がありました。
当時仲買人が三十七人いて、時々市場で力くらべをしたものです。私は体は小さいけれど、米二俵をかついだものです。〆粕も二十四貰(約九十六キロ)ありましたが軽くかついだものです。さつま芋は一俵十七貫で、よく力くらべで酒一升を賭けて、お客さんから酒をいくら貰ったかわかりません。
又、今の阿部家具店の処には魚市場が有り、魚を競る声で賑わったものです。

魚を競る時の符丁

はや、ふて、きり、だら、がれん、ろん、じゃなん、ばん、きわ、りょう(一銭から十銭)、はやこがれん(一銭五厘)、そくはやこがれん(百十五円)そくきりこがれん(十三円五十銭)、その頃百円以上の品はなかったので、あまり使わなかった。
私は趣味として魚釣りをします。海釣りが主で一年に十二回から十三回行きます。今年の初釣りは二月十四日ですが、今度行って八回目になります。
今までに大きなものでは紅鱒で、魚拓をとってあります。イトウでは五十糎ぐらいのものが釣れました。最高に釣ったのは重量で十二キログラムほどでした。
この間、四人で行った時には二百キロ程あり、車のスプリングが伸びてしまいました。苫小牧の近くに良い所があるのですが、朝七時に出掛け、午後二時には切り上げて帰って来ます。川釣りもやりますが、海は歩かなくて良いので今は専ら海釣りです。
商売を始めた頃、自転車にl一十四貰(約九十六キログラム)の四斗樽(約七十二リットル)のタクアンを積んで、砂利道を鰍の沢の白井弥八さんのところまで運んだことがあります。荷台が重くて前が浮き上がるので、ハンドルのところに石で錘りを付けて運びました。何で来たと聞かれ、自転車で来たと言うと、大変驚かれました。

長男の死

昭和三十八年一月五日夜十一時、息子がお客さんと飲んでいて、なんだか頭が痛くなったと言って床に入りました。嫁が水枕を持って行くと、時々ぶっとばしてしまうのです。脳に上ったんでしょうね。
当時数え三十八才でした。その時息子一人、娘三人でした。
それから私が市場に通うようになりました。
二本板金屋が洒が好きで、二人でよく飲んだものです。爺と二人でビールを四十八本飲み、そのあと酒一升を飲みました。桐野歯医者ともよく飲みました。もう三十年も四十年も前の事です。
それから毎日清酒一升は欠かさず飲んでいました。
私は昔から仕事もしましたが、酒もどれだけ飲んだかわかりません。それでもカメはこわさなかった。今では清酒やめ、ウイスキーに切り替えています。一升びんで一週間はもちます。
私は、この町で魚屋一本で商売を続けました。
富良野の市場も組長を十年やり、重役もやりました。上富良野の組合長も相当長い間やり、魚専門で二十五才から五十八年間商売を続けて来ました。
二代目になって、今、市場には息子が亡くなってから嫁が通っています。店番もいやになったので、シャッターを閉めてパチンコでもやろうと思っています。

消防団員として勤務

消防も長い間勤めました。私の時は組頭が宿屋さん、金子さん、高畠さん、伊藤勝次さん、と四代に亘って勤めました。一番大きな火事は八町内の火災でした。あの頃組合長をやっていた関係で裁判にも呼ばれ、事情を聞かれたこともありました。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一