郷土をさぐる会トップページ     第01号目次

入植時の上富良野の状況(広報より転載)

語る人 草分 故 吉沢 くら さん

『三重県人をもって、三重団体と呼称する移民組織をつくり、幌向村を最初に、次いで赤平の平岸と、苫前に移住し、そして、富良野原野の移住には団長に板垣贇夫氏、組織総代に田中常次郎氏を選んだ。
団長板垣贇夫氏が、この入地先にふらの盆地を選んだことは、当時の開拓移民選定調べをよく知っていたこと、又当時の政府は、北海道奥地開発を真剣に考え、鉄道敷設を促進することを急務とした機運にあったことなどを、いち早く板垣さんが知っていたためで、ふらの盆地入植の計画を樹てられたものと思われる。
三重団体の集団入地に先だって、この地に開拓の鍬をふるった人は、西一線北十九号に伊藤喜太郎さんと、その十三人の一家族が、明治二十八年に移住し、二十九年には、東八線北十二号に、上村卯之助さんが、単身開墾に精魂をふるっていた。
あくる年の三十年に、移住団体を迎えたふらの盆地、現在草分地区に住んでおられる、吉沢くら≠ィばあさんに、当時の状況を聞いた。くらおばあさんは、当時十四才で、移住団体の一行に加わった父母に伴われて渡道、十八戸の団体移住者の家族として、ふらの盆地開拓の先祖の方です』
@ 渡道の旅路
北海道の移民に、近所の人が行くということで、私の家もこれに参加することになりました。団体として渡道したのですが、父源七は四十二才を越していました。父源七、母かめ、払と三人家族で、私の十四才になった年です。(くらおばあさんは、明治十七年七月一日生)、三月二十八日、四日市港から出帆、百戸以上の移住民が乗船して横浜に向いました。この船中で伊藤秀吉さんの妻、トハさんが、男の子を出産されました。
船長さんが、船で子供が生まれ、それも男の子ということで、非常に喜こんで大切にしてくれたものです。
船が横浜に着いてからも、一日一晩この船に移民団体を泊めてくれまして、船の名が敦賀丸(つるがまる)≠ニいうことで、船長さんが「鶴丸」と名付をしてくれて、下船の時にカツヲ節を伊藤さんに贈ったと聞いてます。皆が親切な船長さんだったと言い合ったものです。(伊藤さんは、現在元創成校前に居住、伊藤鶴丸さん、明治三十年三月二十九日生まれ)横浜から北海道通いの船に乗り換えて、七飯に寄港、ここで下船した方もあったが、ほとんどの者が小樽で上陸しました。
この船旅が大変なものでした。それはそれは皆が死ぬ様な思いをさせられたもので、この移民船の苦しみは、永久に忘れられない記憶の一つとして、今もなお残っています。小樽から汽車で歌志内に、そこから歩いて平岸に着きました。ここは、板垣贇夫団長が先年移民を入地させた処なのでここにたどり着いたのです。
ここで雪溶けを待つことになって、私のところは長沼さんというところでお世話になりました。
四月の雪溶けと共に、入地する場所の下調べに板 垣団長のもとにあって、先に平岸に入地していた、伊藤政吉さんという若い人で、移民団体の書記をしていた人が、私達の団体の道案内役となって、ふらの原野の調査となったのですが、トーキビの粉をいって、これを携帯食糧とし、この粉は水か湯を入れれば食えるので便利なものだったのを、伊藤政吉さんが教えてくれました。
吉沢 源七    杉野 捨吉
田中常次郎    服部 代二
田村栄次郎    川田七五郎
加藤 清松    久野伝兵衛
城の口仁蔵    寺前千代吉
案内、伊藤政吉さんら十一名しか憶えていませんが、十二名の方が平岸から空知川を遡って今の野花南を経て、富良野川を上流にと、道のない処を川沿いに、残雪を利用して、今の西三線二十九号、一本高くそびえていたニレの大木のもとにたどり着き、ここで野宿したことを父親から聞かされました。
こうして、この附近が入地予定地の場所となり、富良野川沿いには、移民団体が通れないことも確認されたのです。
この野宿した日が、四月十二日だったので、入地後、団体の春のお祭り日とされていましたが、今ではその範囲も小さくなって、草分の方だけで、この行事が今も行なわれています。
当時の状況
『入地する当時の鉄道は、岩見沢と砂川間は二十四年七月に、砂川〜空知太(滝川)間は、次の年二月に竣工し、営業を開始していたが、この以北には、まだ計画がされていなかった。
明治三十六年八月、井上内務大臣は、本道を巡視して意見書を発表し、本道開拓上の最も繋要なる路線は、空知太(滝川)より、上川(旭川)に至り、ふらの原野を貫き、厚岸に至る線とした。
ついで、上川より宗谷に達する線、上川より北見海岸に達し、東方線に連絡する線を施行することについて、軍備上と拓殖上から、日露戦争の前後を通じて、鉄道敷設の気運がより高まって来た。
二十九年五月、二ヵ年間の継続工事として、第七国会で可決され、百七十万七千余円で、滝田〜旭川間三十六里を、上川線として起工をし、三十年に竣工予定の処、神居古澤などの難所が相次いで水害などの難に会い、三十一年一月営業のはこびとなった。
これに相次いで、三十年八月から十勝線、現在の富良野線の鉄道敷設工事を着工し、旭川を起点として南進、ふらの原野を貫き、狩勝峠を経て、十勝平野に汽車を走らせることに、工事は進められた。
この様な状態にあるとき、平岸にたどり占いた三重団体の一行は、これから先の旅路と、入植計画について、どんな思案をしたのであろうか』

A 平岸から上富良野への入地
入地は十八戸、トボトボ歩いて、雪も消え、一緒に富良野に人地する為に来た団体一行も、知人を頼って離散した。
見ぬ地の不安から、ある者は平岸で一作収穫して食糧を持って入ろうという家族もあったりして、私の処は、最初の方針通り、富良野行きの団体仲間に加わりました。
この一行が十八戸、平岸から滝川ー旭川を経由して出発することに決まり、十八戸の人達が荷物を馬の背に(ダグラ)、必需品だけを持って出発しました。
一部分は、空知川を下るイカダに積んだりして、滝川からは、全部馬と人の力で運ぶことになるので持てないものは、平岸の知り合いの人に預けておいて、あとでこの何物は、ネズミが物を運ぶように、
チョイチョイ出掛けては運んだものです。
一行は、初めて歩く道を案内人もなく、富良野はまだか、富良野はまだかと言い合って歩きました。
城の口仁蔵さんという、当時二十五才位の元気の良い方で、「ここはどこだろう」と、知らない者同志で聞き合っているうちに、「スマワナイ」という地名だという。次の処にたどり占いて聞くと、ここも又「スマワナイ」、誰も住んでいない処と占う。
冗談話しと判り、一同大笑い。こんな話題にも勇気づけられて、トボトボ歩いたのです。
どれだけあるかわからない初めての道なので大変苦しい思いをし、荷物は、柳の木の天ビン棒でにないながら、台場ケ原から旭川に入ってノコを「ダイイチ」という金物屋で買いました。
丸井さん(現、丸井デパート)は、平家の小さい店でした。
途中、旭農場で一週間、払どもの一部は泊まりました。
ここでいも種を買ったり、北海道での農家の仕事の仕方を教わったものです。
美瑛からは、鉄道測量の人に道案内して連れて来てもらいましたが、(測量隊は十二名)美瑛からは道が全々ないのです。
美馬牛のオオサカでは、三尺帯に身体をしばって引き上げてもらった難所がありました。人跡のない処を歩いての旅だったので、苦しいというより、恐しい思いをしながら富良野に着いたのです。
十八戸の戸主の名前
吉沢 源八  篠原 久吉  高田次郎吉  田中常次郎  城の口仁蔵
松井市太郎  米川 喜市  田村岩太郎  久野伝兵衛  辻村 勘六
加藤 清松  服部代二郎  川田七五郎  杉野 捨吉  山野 脇松
田村平太郎  寺野千代吉  田辺 三蔵
さんらと憶えていますが、払共が土用に入地したあと同じ年の九月には、布施庄太郎、立松為次郎、若林仲次郎、内田庄吉、増田浅次郎、森川房吉、田村栄次郎さんらが入って来ました。
この旅で、天ビン棒で荷を運ぶことしか知らなかったのが、背負うことも教えられたものです。無人の地に初めて入地し、先ず第一が住いのことでした。
旭農場に一遇間、払達が滞在しているうちに、世帯主や若い人達が住宅を建てる準備をしてくれ、造られた家は堀立小屋でなく、かやでふいたオガミ小屋だったのです。
全部の世帯が入るだけの戸数は、家族が着いてからも共同で造られたもので、建てたというような住いではありませんから、その大きさも想像がつくでしょう。
この年の秋に、冬を迎える為に、このオガミ小屋では越冬できない処から堀立小屋を皆が建てました。
最初のオガミ小屋を造った時は、荷物を解いた縄を使って小屋組みし、秋に建てた掘正小屋からは、野地スゲを蔭干しにして叩いた、スゲ縄を使い、藁縄は、米俵を解いたものを使ったものです。家の入口は、コシを編み付けたヨシ戸でした。五月の節句は、美瑛に滞在していた時なので、五月十日頃から立木を伐採して開墾にかかり、わずかの作付面積しかなかったが、草丈も良く伸び、穂も太くりっぱな稔の秋を迎えて、イナキビ五〜六俵、アワ五〜六俵と、イモ十俵以上も収穫したので、親子三人暮しの私の処では、食い物には不自由はありませんでした。
この収穫を迎えるまでは、食糧や日用品を買い求める為、旭農場、御料地、旭川まで行くのに、行き帰りに二日の旅で、十三、四人も連れだって行ってきたものです。
先に定着した人達の処にも、買い出しに行って来たということです。
幸い、ケガ、病人といったような不幸なことがあったのを憶えていませんが、落合善助さんの親、石松さんが器用な人で、ちょっとしたケガの治療を、医者の代りにしてくれました。
(この原稿は、町広報二十七号昭和l二十六年一月、二十八号同年二月、二十九号同年四月発行分から再掲したものです。)

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一